「よく生きる」ための1つだけの条件


 

 

わたしの祖父は91歳で逝きました。
近年の統計を見ても、大往生と言えるでしょう。

 

 

 

その祖父が今わの際まで心配していたのは、
同じく高齢になった祖母のこと。

 

 

 

残してやれたのは、保険と積み立て金と市営住宅の狭い部屋だけ。
認知症も出てきたし、働いたことがないので社会の仕組みにも疎い。
高齢になって物欲が増えたようで、お金のやりくりも不安。

 

 

 

何を誰に任せて、どれを処分して祖母のこれからに充てるか。
聡明な祖父らしく、できる範囲のことをしっかりと準備しました。
その過程で、祖父がどれだけ祖母を慈しんでいたか、感じました。

 

 

 

それは真っすぐに羨ましいと思います。
自分も見習いたい。
それは間違いない。
ないのですが…。

 

 

 

厳しくも優しい。実は、子供の頃は苦手だった。

 

母方の祖父は、一言でいえば、昭和の男性。
いつも背筋が真っすぐで、今の基準で言えば小柄な方ですが、
顔つきは厳めしく手のひらは大きく硬く、声も大きく。
筋骨逞しく、子供が怖がる感じでした。

 

 

 

わたしが子供の頃は、顔を合わせるのは一年に数回でした。
正月、お盆、わたしの誕生日、あとは旅行のお土産があるときぐらい。
誕生日とクリスマスには、ファーブル昆虫記を1冊ずつ。
それが終わればシートン動物記を1冊ずつ。

 

 

 

本を読む人に育ってほしい、自然や歴史に興味を持ってほしい。
そういう意味だったのだと思います。
祖父の本棚には司馬遼太郎や池波正太郎の本が並んでいました。

 

 

 

父方の祖父がゲームやお菓子をすぐ与えてくれる人だったので、
そちらと比べてしまっていたのでしょう。
子供心に、なんとなく苦手でした。

 

 

 

祖母は、料理が本当に上手な、おっとりした人です。
煮物が得意で、特に正月に炊いてくれる黒豆は絶品。
大人になってからは外でも黒豆を食べもしますが、
あんなレベルのものには出会ったこともありません。

 

 

 

そんな祖母の料理やカニなどの旬の食材を肴に、
祖父はたまにビールや日本酒を飲んでいました。
料理は苦手、というかあまりしたことがないようで、
鍋を焦がして捨てたんだと祖母が怒っていたこともありました。

 

 

 

灘の旧制小学校を卒業し、陸軍では整備の仕事を担当。
そこで終戦を迎え、車の整備の仕事に就いたと聞いています。
戦場に出ずに済んで本当によかった、と言っていました。
同級生で亡くなった人も少なからずいたそうです。

 

 

 

整備工場が店をたたんでしまったので、タクシードライバーに。
自分で整備をしながら、一台の車を大事に大事に乗ったんだと
誇らしげに言っていたのを覚えています。
結局はこれがリタイアまでの仕事になったようです。

 

 

 

リタイアしてからは、字を学んで筆耕の仕事を請け負ったり、
住んでいる団地の自治体の会長になって世話を焼いたり。
長く趣味にしていた写真にも熱が入り、

時には幼い母や叔父を連れ、風光明媚な土地を訪れたそうです。

 

 

 

植物や花を、光と影をうまく表現して撮るのが好きだったようで、
何十冊といったアルバムが残っています。
同好会に所属して展覧会へ出展したり個展を開いたり。
何回か賞をもらったと言っていました。

 

 

 

わたしも結婚してから、少し教えてもらいました。
「やっぱりデジタルはあかんな、写せても表現ができん」
そうぼやいていました。

 

 

 

自治体の会長としての評判は上々だったようで、
祖父の家に滞在していると、何時間かおきに誰かしら訪ねてきて、
相談したりものを聞いたり、時にはどこかへ同行したり。

頼られていた記憶があります。

 

 

 

わたしが就職してから、時折訪れて仕事の話をすると、
そうかそうか、と楽しそうに聞いていました。
時には新米のわたしなんかよりずっと深い洞察で、
社会で起こっていること、懸念されることを教えてくれる。
そんなこともありました。

 

 

 

わたしも異動を経験し、仕事が忙しくなってきたこともあって、
だんだんと足が遠のいていき。
一年に一回会うか会わないか、そのくらいになっていきました。

 

 

 

知らせがないのはよい知らせ。とは言うけれど…

 

 

正月に帰省した時だったか、いつものようにお酒を飲みながら、
母が、ついでの話のようにぽつりと。

 

 

 

「お父さんが末期の肺がんで、余命1年あるかないか」
「どれだけの延命になるかわからんけど、新薬を試したい」
「副作用で一気に危篤になる可能性もある」
「あんたの了承もほしいけど、どう思う?」

 

 

 

何かの悪い冗談かと思いました。確かに90近い高齢なので、
そんなリスクもあることはわかってはいました。
が、いきなり余命いくばくか、とか。
予想も覚悟も、全くありませんでした。

 

 

 

聞けば、息苦しさが続いたので病院で検査してみたら、
末期がんがみつかった、ということ。
それが、母からのカミングアウトの1カ月前。
つまり残された時間は、11カ月あるかないか。

 

 

 

いくらなんでも言うのが遅くないか、と思いました。
が、淡々と話をする母を見て、
これからの備えも含め順序立てて話ができるのに
時間が必要だったのだと悟りました。

 

 

 

高齢だし、体力的に手術や強い抗がん剤での治療は不可能。
承認薬でできるのは進行を少し遅らせることだけ。
新薬なら遅らせる上にもしかしたら小さくできる可能性はある。
ただし、完全になくすことはできない。

 

 

 

がんは脳に転移することもあります。
祖父本人はそれを一番恐れていて、脳への転移を抑えられる
可能性があるなら、リスクを取っても新薬を試したいと。
後日、祖父から直接聞きました。

 

 

 

否やがあろうはずもないです。

文字通り自分の命を賭けて、残りの時間を少しでも良いものにしたい。
そのために自ら決めてリスクに立ち向かう祖父に、

背中を押して一緒に歩む以外、何ができるでしょうか。

 

 

 

それからの1年間は、主に母の希望だったのですが、
祖父といろいろな場所へ行きました。
祖父や母にとって、やり残しをできるだけ少なくするために。
きっと、それまでの時間を埋め合わせる意味もあったのでしょう。

 

 

 

それぞれの場所に、それぞれの思い出がありました。

有馬温泉は、昔、家族で逗留した場所。
祖父は豊臣秀吉ゆかりの湯が好きで、いつか再度、と思っていたこと。
初めて一緒に温泉につかりながら、ぽつりぽつりと、
長い時間をかけて、祖父が携わってきた仕事や考え方を聞きました。

 

 

 

そのことを夜、母に伝えると、唸るように言われました。
初めて聞いた、と。
そして、ありがとう、と言われました。

 

 

 

南紀は、お気に入りの撮影スポット。幼い叔父を連れてきたことも。
いつか母とも、と思っていたそうです。
食が細くなってきていた祖父が、厳めしい顔を少年のようにほころばせ、
クエ料理をたくさん食べていました。

 

 

 

夏には、1990年に「花と緑の博覧会」が開かれた鶴見緑地へ。
公園内や温室には今もたくさんの花が植えられており、
祖父は撮影に足繁く訪れていたそうです。
花の咲く場所、時期はもちろん、公園の変遷にも精通していました。

 

 

 

秋には京都へ。府立植物園や寺社を訪れ、紅葉を楽しみました。
京都は母にとってもなじみ深く、高校時代、
嫌いな先生の授業をサボってよく訪れていた話をして、
祖父を驚かせていました。

わたしと妻も、光と影の撮り方について祖父に手ほどきを受けました。

 

 

 

布引の滝は、祖父にとって、知っているけど初めての場所。
ロープウェイの上から見事な滝が見えました。
麓から頂上に続く数kmの道沿いにたくさんの植物が植わっていました。
別の季節にも来たかったな、と祖父が言っていました。

 

 

 

90の高齢とは思えない体力で、大好きな緑に親しむ旅行を重ねて。
母にとっても初めて見る顔がたくさんあったようです。

 

 

 

公の顔、私の顔

 

新薬の効き目は思ったよりも良好で、深刻な副作用は起こらず。
一時は病巣の縮小まで見られました。

 

 

 

が、現実はそんな甘いものではありませんでした。

 

 

 

ある日、急に入院したと知らせを受けました。
血相を変えて駆けつけると、ケロッとした顔で待ちうけていました。
息苦しくて辛いからと自分で救急車を呼んだそうです。
水を抜く処置をしたら楽になった、と笑っていました。

 

 

 

実はその日、二度目の有馬へ行く予定でした。
さすがにしんどい、土産話を楽しみにしていると言われ、
祖父抜きで行くことになりました。

 

 

 

そんな事が2度ほどあった後、酸素ボンベを曳くように。
元気に見えてもがんは進んでいて、肺胞が減ってしまっており、
酸素が十分に取り込めなくなっていました。

 

 

 

それでもまだ出歩く体力はありましたが、
人目も気になる、ボンベを曳くのも億劫、というのもあって、
外に出にくくなってしまったようです。

 

 

 

わたしも海外出張などが重なり、しばらくしてから会うと、
明らかに痩せてしまっていました。

 

 

 

時間がこんなに急に減ってしまうとは思っていませんでした。
いえ、本当は着々と減っていたんですが、
気付かないふりをしていたんですね。

 

 

 

なぜ無理をしてでも会いに行かなかったのか。
今でも後悔しています。

 

 

 

 

そして数カ月後、最期になる入院へ。
この時も自分で救急車を呼んで、入院準備もしたそうです。
祖母に「ちょっと行ってくる」と言って、散歩に行くみたいに
玄関を出ていったと、落ち着いた頃に祖母に聞きました。

 

 

 

本当に大した祖父でした。

 

 

 

 

 

 

 

通夜、葬式、初盆や三回忌、七回忌と明けてつくづく思ったのが、
周りから頼りにされ、慕われた祖父だったのだということです。

 

 

 

5人兄弟の長兄として礼儀と伝統を重んじ、
3番目以降の兄弟の学費は自分も稼ぎながら面倒をみて。
現在では兄弟全員が高齢で、減じてしまったメンバーもいますが、
今でも「にいちゃんはすごかった」と言います。
にいちゃんは怖かった、とも。

 

 

 

自治体の世話役としても活躍したようです。
会合には毎回出席し、家には人がよく相談に訪れ、時に呼び出されもし。
今、近隣の人が祖母のことを気にかけてくれているのも、
祖父の働きも影響しているように思います。

 

 

 

灯台下暗しとは言いたくないけど

 

 

 

そんな祖父でしたが、特に晩年、悔やまれることがありました。

 

 

 

ひとつめは、自分の子供たちとの関係。

 

 

 

わたしにとっては怖くも優しいおじいちゃんでしたが、
若い時はやはり仕事一筋、家庭を顧みず、頑固な父だったようです。
時代が時代、高度成長期の真っ只中で仕方ない面もありますが、
子供たちとの会話が決定的に足りなかったように思います。

 

 

 

母にとって、晩年の旅行で初めて知った祖父の背景や考え方、
経験がたくさんありました。
お互いいい歳になって、そんな話をするタイミングもあったろうに。
してこなかった。興味を持たなかった。

 

 

それは、祖父が亡くなってから母にとって大きな後悔になっています。
未だに、祖父が晩年に撮影した写真を見る勇気がないと言って、
祖父のために買ったカメラはケースに入ったままです。
最後に祖父が使って、持ち帰った時のまま。

 

 

 

どんなに孝行しても何かしら後悔は残るのでしょうが、
拭いようのない、埋めるチャンスのない大きな後悔が残るのは、
どうしようもなく不幸なことだと思います。

 

 

 

叔父は結婚してから、奥さんの実家との兼ね合いで、
祖父や祖母とほとんど会えていません。
子供も二人いて、孫という「かすがい」があるにもかかわらず。
何が原因なのか、祖父も祖母も母も口にしたがりませんでした。

 

詳しくは知らないので意見もできませんが、
これも不幸なことだと思います。

 

 

 

子供の頃や学生時代は、価値観も違えば共感できないこともあります。
が、子供が社会人になって、生活にも慣れた頃から、
年に1回でも2回でも、酒でも酌み交わしながら話す時間があれば。
この状況も少しは違っていたのかもしれません。

 

 

 

もちろん、それで全て解決、とはなりません。
が、本当に困った時、しんどい時に大きな支えになるのが、
家族なんだと思います。
そこに大きな溝や隙間があると、助けが欲しい時に壁になったり、
のちのち巨大な後悔の源になったりするのではないでしょうか。

 

 

 

もうひとつが、祖母との関係。

 

 

 

わたしが子供の頃は、祖父と祖母は、仲のいい老夫婦でした。
祖父が書き物をしていて、祖母が料理をしていて。
祖母がお茶を淹れると、わたしたちの他に大きい湯呑も用意して、
休憩したらどう、と声をかけるような、そんな、
どこにでもある夫婦でした。

 

 

 

それが、晩年の数年前のいつ頃からか、
祖父に対して、祖母がいやにきつく当たるようになりました。
きつく、というか、もはや絡むという感じ。

 

 

 

起きるのが遅い、食事の後片付けもしない。
自分ばかり外に出かけて、全部人にやらせて。
そんなに大層な人間なのか。偉そうにしやがって。
外で自分のことをバカにしているんだろう。

 

 

 

呼びかけても返事をしない、返事をしたらしたでうるさい。
声が大きい、足音が大きい、呼吸音が大きい。
祖父が何か言うとすぐ、ろくなことを言わない、と遮る。

 

 

 

わたしや母が訪れてもそんな調子でした。

憎しみすら感じる言いようで、うんざりするほどでした。

 

 

 

原因は、祖母と祖父が若かった頃の出来事のようです。
確かなところは二人しか知らないのですが、
どうやら親族内で祖母が孤立することがあり、
それを祖父が助けてあげられなかったようです。

 

 

 

仕事やお寺の対応が忙しかったのでしょうか。
今となってはわかりません。

 

 

 

本当はずっと、祖母の胸の中で燻っていたのでしょう。
それが何かのきっかけか歳経て自制が弱くなったのか、
突如噴出したようです。

 

 

 

祖父が存命の頃、祖父はそれを決して語りませんでした。
祖母は、目の前の祖父のことをなじるばかり。
祖父はそれに、ただただ耐える。

 

 

 

祖父の余命が宣告された後も相変わらずでした。
肺に水がたまって咳が止まらない祖父に、
「うるさくて寝られない」「アピールして、そんなに苦しいか」
などと言ったときは、さすがに聞いていられませんでした。

 

 

 

悲しいことに、それを祖母に注意しても全く聞く耳をもたず、
いかに祖父が自分勝手か、卑劣な人間かを主張するだけ。
わたしや母がいてもそうなのだから、
祖父と祖母ふたりきりの日常では、どんなに苛烈だったでしょうか。

 

 

 

自分の命が尽きようとする中、
そんな理不尽にも思える仕打ちを受けながらも、
一番に祖母のこれからを心配して、心を砕いて、準備していました。

 

それは、どんなに責められても、なじられても、
やっぱり祖母が大事だったからだと思います。

 

 

 

それが祖母に伝わらないことが、本当に切なかったです。

 

 

 

そして今現在、明らかに祖父への接し方が原因で、
母が祖母へのわだかまりを持っています。
祖父の遺志を汲んでやろうと言っても、感情は度し難いもの。
これも本当に悲しいことです。

 

 

大事な人に、大事にしていることを伝えるには

 

 

祖父が亡くなる過程に立ち会って、どうしても想像してしまいました。
自分が死を迎えようとしている時、
自分の人生を振り返って、一体何を思うだろう、と。
きっと、満足できる部分と後悔する部分と、どちらもあるでしょう。

 

 

 

あの困難な時期を乗り越えて成果を出せた、とか。
人間関係に恵まれて、意義のある生き方ができた、とか。
周りから頼られて自分も応えられた、誇れる人生だった、とか。

 

もっといろいろな場所に行きたかった、とか。
尻込みせずに、もっと挑戦したらよかった、とか。
もっと妻や子供や家族を大事にすればよかった、とか。

 

 

 

満足と後悔、どちらか一方だけの人生はありません。
むしろ、後悔があるから満足もある、とも言えるでしょうか。
とはいえ、やはり満足が多い方がいいに決まってますよね。

 

 

 

人生に関わるのは、大きくは2つのものしかないと思います。
自分自身と、周りの人たち。
影響を与える、もしくは与えられる頻度で見ると、

圧倒的に「周りの人たち」の割合が高くなります。

 

 

 

「自分」は一人ですが、「周りの人たち」は複数います。
一言かけるのを影響ひとつとみると、自分が誰かに一言かけるより、
自分が誰かに一言かけられる方が、
一言の数ははるかに多くなりますよね。

 

 

 

使い古された言葉ですが、人は、一人で生きているわけではない、
ということです。
その「周りの人たち」の中で最も身近な存在が、家族です。
配偶者、親、子供、祖父祖母、いとこ や はとこ たちです。

 

 

 

便宜上こう書いただけで、婚姻関係や血縁関係は関係なく、
あなたが「一番大事な人たち」と思える人たちのことです。
例えば親友がここに入ってもいいと思います。
自分自身と家族を軸にして、友人たちがいて、恩師や同僚がいて。
周りの人たちが広がって、人生は成り立つのだと思います。

 

 

 

自分自身を大事にできたと思えること。
一番身近な家族を大事にできたと思えること。
家族から大事にされたと思えること。
家族も「大事にされた」と思ってくれていると、自分が思えること。

 

 

 

これが、自分の人生を振り返った時、満足だと思えることを増やす
第一の方法ではないでしょうか。
そして、さらに周りの人たちも大事にできたと思え、
大事にされたと思ってくれれば、満足は増えていくでしょう。

 

 

 

誰かを「大事にする」というのは、文字にすればたった5字ですが、
大事にできた、大事にしてもらえている、
と感じるのは結構難しいです。

 

 

 

全てにおいて優先するというのも一つの方法ですが、
それでは自分のことが蔑ろになるかもしれないし、
自分が「大事にされた」と感じられないかもしれません。

自分のこと、気持ちも大事にしたいですよね。

 

 

 

というか、自分のことも大事にできない人が、
誰かを大事にするだけの価値観を持っているのか甚だ疑問です。

 

 

 

こうやって大事大事と書いていると、
「だいじ」が「おおごと」に見えてきますね。
まあその通りか。
自分にとってあなたは「おおごと」である、てことですもんね。

 

 

 

大事な人に「大事にしているよ」と伝える方法。
これは、言葉でも態度でも、スキンシップも使って、
繰り返し日常的に発信していくしかないのだと思います。

 

 

 

これには時間もかかるし、発信が伝わる距離にいることも重要です。
すぐに伝わって信頼できる、そんなことは起こり得ません。
一方で、長い時間を経てそれが培われると、揺らがなくなります。
離れていても会えなくても、根っこのところで信じられます。

 

 

 

自分が相手のことを大事に思っている、ということが相手に伝わり、
伝わっていることが自分にもわかる。
その時に「自分は相手を大事にできている」と思えます。
お互いに伝わっていることをわかり合うのが重要です。

 

 

 

ですので、話す時間、触れ合う時間が減ったりなくなることは、
人生の満足度や質を下げることに他なりません。

 

 

 

祖父の人生を否定する気は全くありませんが、
仕事や周りの世話で忙しくて、
祖母や子供と過ごす時間が少なかったのではないかと思います。
実際、母も叔父も、祖父はいつも家にいなかったと言っています。

 

 

 

前にも触れましたが、時代が時代です。
当時の一般的な男性社会人はそれが普通だったと思います。
わたしの妻の父もそうだったようですし、祖父からも義父からも
「男なら仕事に生きてなんぼ」と言われたこともあります。

 

 

 

多少変わってきてはいますが、
現代においてもアジア圏では定着している考え方ですよね。
男性の育児休暇取得や家事への参画率が上がらない大きな原因です。

 

 

 

ですが、仕事に生きて、家族との時間や触れ合いを犠牲にして、
自分の人生に一体何が残るのでしょうか。

 

 

 

意味がないとは言いません。
充実した人生だったと感じられるでしょうし、満足もあるでしょう。
戦友と呼べる上司同僚もできるでしょう。
自分の名前や成果が後世に残ればそれは、文句なく偉業です。

 

 

 

その代わり、大きな後悔をしながら死んでいくのでしょう。

 

 

 

あの困難な時期を乗り越えて成果を出せた。
周りから頼られて自分も応えられた、誇れる人生だった。

 

けど

 

もっと妻や子供や家族を大事にすればよかった。

 

もしかしたら

 

もっと家族を大事にしていれば、辛い晩年を過ごさずにすんだかも。
「偉大な人」ではなく「大事な人」として、
自分の死を心から惜しんでもらえたのかも。
自分がいることで大事な人が幸せを感じる、そんな人であれたのかも。

 

もう、取り返しがつかないけど。

 

 

 

寒々しい気持ちになりますよね。
こんな終わり方はしたくない。
祖父には悪いですが、心からそう思います。

 

 

 

わたしは今、大事な人を大事にできる、自分も大事にしてもらえる、
そんな生き方ができる環境を探しています。
大事な人たちとの時間が十分にとれる、
そんな働き方を探しています。

 

 

 

わたしたちの人生は、一度だけ、わたしたち自身が生きる人生です。
日本や社会や世の中のための人生ではありません。

 

 

 

選択肢として、今いる組織を変えるというのはアリです。
もし達成できれば、望む環境も働き方も一か所で手に入ります。
急ピッチで働き方改革が進む今は、千載一遇のチャンスです。

 

 

 

ですが、事実として、組織はすぐには変わりません。
体力も資金も十分で強力なトップダウンが可能であれば、
数年のうちに変わってもいけるでしょう。
もしあなたがそんな組織にいるならラッキーです。羨ましいです。

 

 

 

わたしの場合、今いる会社が変わるのを待っていたら、
時間切れになるのは明らかです。
たぶん10年はかかります。
組織がなくなっている可能性もあります。

 

 

 

であれば、自分から飛び出すしかないですよね。

 

 

 

 

 

 

アメリカで80歳以上の方を対象にしたアンケートを取ったそうです。
「最も後悔していることは」という質問には、なんと、
70%の人が同じ回答をしたそうです。

 

 

 

それは、チャレンジをしなかったこと。
周りに気を使ったり尻込みせず、もっと挑戦したらよかった、と。

 

 

 

取り返しのつかなくなる前に、満足できる人生にするために。
大事な人たちと幸せに生きるために。
今のままの生活や生き方で大満足、というのでなければ、、
チャレンジしてみましょうよ。


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筆者:鳴海 研

化学メーカーにつとめる30代理系サラリーマン。
一人っ子として育てられたと思ったら実は違ったり、
借金で育てられたり家族が蒸発したり会社の先輩が失踪したり、
色々経験する中で辿り着いた、本当に生きたい人生とは。
あなたはどんな未来を実現したい?そんなことを書いています。

⇒鳴海研ってどんなやつ?

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