何のために生き、何を目指して働くのか

 

言葉には力があります。力を与えることも、奪うこともできます。
心を砕くことだって、できます。

 

 

 

心を砕く言葉。
別れようとか、嫌いになったとか、役に立たないとか。
経験や背景、年齢、状況によって様々でしょう。

 

 

 

わたしが最もくじけそうになったのは。

 

 

 

光のない瞳で、無表情に。
愛する人から「死にたい」と言われたこと。

 

 

 

ただし、粉々になったふたりの心を混ぜ合わせて、
もう一回作り直して。
それで得られた、たった一つの「生き方」への価値観があります。
二度と揺らがない、根本になる価値観があります。

 

 

 

そのお話をしたいと思います。

 

 

看護師の卵として

 

 

当時、付き合っていた彼女がいました。
付き合って4年が経った頃、同棲を始めました。
わたしは社会人3年目、彼女は大学卒業したて。
彼女の大学卒業をきっかけにして。

 

 

 

給与の額はたかが知れていて、それで二人の生活を賄うので、
決して貧しくはありませんが豊かでもありませんでした。
一緒にいて、休日には食事を一緒にして、一緒に寝て。
映画を見たり出かけたり、日常生活がただただ楽しい頃でした。

 

 

 

わたしは化学メーカーの研究職で、
研究テーマの推進責任者を任され一番身が入っていた頃です。
彼女は大学院への進学を志しましたが、
残念ながら叶いませんでした。

 

 

 

彼女の親へ学費負担をかけ続けることを嫌っていて、
あと2年と決めていたようです。
2年制の看護の専門学校へ行くことになりました。
彼女の母親が当時現役看護師で、その勧めもあって。

 

 

 

看護は彼女にとって初めての領域でしたが、
勉強は面白いと言っていましたし、
大学時代にはなかった様々な背景を持つクラスメートができたことも、
彼女にとってプラスだったようです。

 

 

 

高卒はもちろん、シングルマザー、介護職から転じた男性、
元自衛官、元OL、手に職をつけようとする母親などなど。

 

 

 

近隣の寺社やイベントを利用した学外研修等もあり、
彼女としても学校へ行き学ぶ生活は慣れたものですので、
座学の間は楽しく通っていました。

 

 

 

半年も経った頃から、実習が始まりました。
実習と言っても、実際の病院で、実際の患者さんを相手に、
現役看護師の指導のもと学ぶインターンのようなものです。

 

 

 

注射などの医療行為はできないので、たとえば寝返りの補助とか、
移動するためにベッドから車いすに移る手伝いとか、
そういった基礎的な部分の実習になります。

 

 

 

ですが、実際の患者さんを相手にするので、
接し方や気配り(接遇というそうです)は当然、必要です。
患者さんにも学生の実習である旨伝えるそうですが、
相手があることなので、時にはうまくいかないこともあります。

 

 

 

指導する看護師さんはもちろんプロですので、
慣れない学生の至らなさが目につきますよね。
しかも、多忙極める仕事の中での指導です。
看護師さんによっては、きつい言い方だって出てきます。

 

 

 

習ったはずでしょ、なんでこんなのもできないの、とか。
予習も復習も不十分、これで看護師になれると思ってるの、とか。

 

 

 

看護師さんも学生時代があったわけだし、そんな言わんでも、
とは思いながら、まあ、気持ちはわかる気がします。
わたしも研究業務の一部を大学生に任せたら、同じように言うかも。
危なっかしくて仕方ないです。

 

 

 

患者さんに気持ちよく過ごしてもらうため。
座学で学んだことを実際できるようになるため。
あと、指導の看護師さんが厳しかったら、叱られないためにも。
学生は、定められた実習の予習復習に励みます。

 

 

 

それが、わたしの目から見ても、かなりハードでした。
実習が始まると、当たり前ですが平日は毎日実習です。
予習も復習も毎日、実務と同様の形式で行われます。
看護師として働く人材を教育するという点で、いい指導です。

 

 

 

まずは明日の予習ですね。
座学をベースに、翌日実施する内容のケーススタディをします。
何を準備しておくべきか、どこに気を付けるべきか、
起こり得ることには何があるか、それにはどう対処するか、とか。

 

 

 

そのレポートを持って翌朝、ナースカンファレンスというんですかね、
始業時の申し送りと確認のミーティングをします。
そこでは細かい作業内容や注意点の確認はありません。
自分の予習内容は全て、実習を通して見られます。

 

 

 

実習中に間違いや勘違い、過不足は担当の看護師さんから指導され、
それを元に、復習として、予習レポートの加筆訂正を行います。
レポートは看護師さんが普段書いているものとほとんど同じで、
看護師さん自身のものと見比べ指導になります。

 

 

 

現役の看護師さんが見ている中、緊張しながら、
初対面の患者さんに初めての処置をする。
これは実際に看護師になれば日常茶飯事で、できて当然とはいえ、
世慣れていない学生にとってはなかなかハードですよね。

 

 

 

指導された内容がその場で全て理解できないこともよくある上、
その後に確認する時間が取れなかったりもらえないことも。
その場合、自分で調べて復習するしかないわけです。
翌日の予習にも時間がかかるけど、復習も全く手が抜けません。

 

 

 

しっかり復習していかないと、当然、翌日に厳しく指導されます。
指導に時間を取ってしまうと担当の看護師さんに迷惑ですし、
その日の実習にも遅れを出してしまいかねないので。

 

 

 

看護師になるってこんなにきついプロセスなのか。
彼女の生活を見ていて驚きました。

 

 

 

19時頃に帰宅し、夕食をとってすぐに復習に取りかかる。
あっさり終わって1時間、時間がかかれば3時間ぐらい。
それから予習を始めて、寝るのが夜中の2時ぐらい。
翌朝7時には家を出る毎日でした。

 

 

「負のループ」へ突入

 

 

 

 

とはいえ、きつい毎日を送っているのはクラスメイトも同じです。
友達とお互い支え合いながら、時には同じ班の人と電話しながら
課題に勤しんでいました。

 

 

 

それでも疲労は着々とたまっていきます。睡眠不足が起点です。
能率が落ち、復習予習に時間がかかって睡眠時間が更に短くなり、
実習でうまくいかずに復習内容が増えて余計に寝れない。
お手本のような負のループですね。

 

 

 

叱られることから学ぶとか、
今回は患者さんに痛い思いをさせないレベルまで仕上げようとか。
何回かに一回ぐらい、割り切って休めればよかったんですが、
彼女は完璧主義の傾向がありました。特に当時は。

 

 

 

納得いかないことやわからないことがあると、
そこを一旦置いて進むことができません。
引っかかりが解消するまで進まないので、非常に時間がかかります。

 

 

 

なので、復習を終える頃には日付が変わり、
疲れ切った頭で十分な予習など望むべくもなく、
ろくに眠れないまま実習し、失敗してその分復習に時間がとられ…。
ループ突入です。

 

 

 

週末は次週の実習の予習をできるだけ進めておこうとして、
気を抜くどころか気が張る一方。
手を抜いたら意味がない、と真剣に取り組む姿勢は本当に立派ですが、
頭と気持ちを休めるタイミングがないのは気がかりでした。

 

 

 

自分のやるべきことを頑張りたい強い気持ちはよく理解できたので、
「休むことも必要」「頑張り過ぎたら続かんで」と
口で言う以上のことはしませんでした。
むしろ、頑張ってるね、頑張れ、と後押しすらしていました。

 

 

 

 

 

 

今思えば、もっと極端なことをすればよかったと思います。
勉強道具を取り上げて無理やり休ませるとか、
無理に外に連れ出すぐらいするべきでした。
それ以前に、もっと彼女と話をする時間をとるべきでした。

 

 

 

リラックスできる相手と、短時間でも顔を突き合わせて話をすると、
それだけで張り詰めた気持ちが少し楽になりますよね。
違うことを考えるので頭の切り替えにもなります。
それに一番いいのは、仕事から手を放す食事時だと思います。

 

 

 

しかし、わたしも当時は仕事がいっぱいいっぱいで、
朝6時前に家を出て帰宅が23時過ぎという毎日でした。
必要に迫られて交代勤務を組み、20時出勤の翌8時退勤なんて日も。
平日に彼女と食事をとることはほとんどありませんでした。

 

 

 

それが原因でケンカをすることもありました。
「私と仕事、どっちが大事なの」
そんなドラマみたいなことはなかったですが、
「温かいご飯が食べたいんだ」と言われたことがあります。

 

 

 

言われた時は意味がわかりませんでした。
「電子レンジで温めたらいいやん?」と返したぐらいです。
それはそうだ、その通り、と思うかもしれませんが、
そういう意味ではないんです。

 

 

 

彼女が言いたかったのは、何を食べるかではなく、
一人で黙々ととる食事は寂しく冷たい、ということ。
話をし、話を聞き、リラックスできる時間が欲しいということです。
ちゃんとサインを出してくれていたんです。

 

 

 

ですが、その当時のわたしはあまりに無知で、想像力がなくて、
自分のことで精一杯でした。
根拠も何もなく、自分たちは大丈夫、と信じていました。
わたしも頑張っているんだから、彼女も頑張れる、と。

 

 

 

 

人間は永久機関にはなれない

 

 

 

彼女の変化は、比較的ゆっくり現れました。

 

 

 

彼女はもともと朝は弱い方だったのですが、
拍車をかけて起きにくくなりました。特に休日ですね。
日ごろ遅くまで勉強しているし、寝不足の反動だろう、
疲れているからだろうと軽く考えていました。

 

 

 

だんだんと食事量が減っていきました。
朝は食べない人でしたが、昼も夜も。おなかが空かないと言って。
その代わり、あまり好きでなかった甘いものが増えました。
脳が欲しているのかな、なんて言っていました。

 

 

 

イライラしていることが増えました。
テレビを見ていても「もうこんな時間」とイラつくとか。
同時に、怒りっぽくなりました。
疲れているんだろう、と捉えられるレベルですが。

 

 

 

彼女はいわゆる「本の虫」で、多い時は月に20冊近くも読む人でした。
それが、ほとんど読まなくなっていました。
時間がないことに加えて、興味が持てないと。
読んでも内容が頭に入って来ないとも。疲れかな、と言っていました。

 

 

 

何かおかしいな、と思いながら、深く考えることもせず、
全部疲れのせいにしていました。
この局面を乗り切れば元通りになると、疑いもせず信じていました。
わたしも、彼女も。

 

 

 

 

 

 

そのまま数カ月経ちました。頑張り続けました。

 

 

 

 

 

 

その頃には、彼女は、ほとんど眠れなくなっていました。
夜、目を閉じると、勉強のことや叱られたこと、
次の日の実習への不安が堂々巡りになると言っていました。
予習復習が不十分な気がして、眠気が来ない、と。

 

 

 

もちろん体や頭は疲れ切っています。
眠れないと、翌日はとてもしんどい。ですがその日も眠れない。
眠れないし、不安もあるから、夜中から勉強したりもします。
でも、疲れているから進まず、焦りと不安が募って更に眠れない。

 

 

 

食事もほとんど喉を通らなくなっていました。
朝にゼリーをひとつ食べて、その日はそれだけ、なんてことも。
わたしが早く帰った日、ちょっとでも負担を減らそうと夕食を作る
こともありましたが、二口三口でおなか一杯になってしまう。
せっかく作ってくれたのに、と沈んでしまうこともありました。

 

 

 

笑わなくなり、無表情でいることが増えました。
呼びかけても反応が薄く、遅く、生返事だけ返ってくることも。
わたしが夜に帰宅したとき、電気も点けず、
暗い部屋の中で一点を見つめてじっとしていることもありました。

 

 

 

一方で感情の起伏は激しく、本当にちょっとしたことで
激高するようになりました。

 

 

 

帰宅直後、玄関が散らばっていると怒鳴って鞄を投げ捨てるとか。
掃除したばかりなのに、部屋が汚いといって怒鳴るとか。
質問しても「うーん」しか返ってこないので、
2回目を聞くと「しつこい」と突然癇癪を起こすとか。

 

 

 

感情が制御できないことは自覚があるようでした。
癇癪が収まってから、思い出したようにぼそっと、
「自分の感情に疲れる」とつぶやき、泣いていました。

 

 

 

あれだけ好きだった本も、手に取ることすらなくなりました。
映画やテレビや買い物にも、食事にさえ全く興味を示さない
時間が続くことも。
ただ無表情に机に向かい、予習復習をしていました。

 

 

 

と思えば、急に酔っ払い並みの異常なハイテンションになって、
すぐに外出してゲームセンターでクレーンゲームに熱中するとか。
日付も変わってからウェブで動画を何時間も見漁るとか。
大きな声で、脈絡ない話を次から次にしたりとか。

 

そんな周期が日単位、時には数時間おきに繰り返しました。

 

 

 

勉強はしなくちゃいけないから、毎日やる。
でも、やってもやっても内容が頭に入らない、終わらない。
みんなやってるのにできない自分は、なんてダメな人間なんだろう。
彼氏(わたし)にも迷惑をかけている。いないほうがいいのでは。

 

 

 

そんな思考も目立つようになってきていました。
彼女自身もおかしい、と思っていたようです。
提案すると「そうだね、念のためにも」という感じで、
すんなりと、近くの精神科を受診することになりました。

 

 

 

診断結果は、いわゆる躁うつ病。
大枠では双極性障害とも言われます。
発症に男女差はなく、世界的には2~3%の人が罹っているようです。
躁の状態が比較的軽かったので、双極Ⅱ型だったと思います。

 

 

 

原因は、簡単に言えば、頑張りすぎです。
ストレスを逃がせずに、補給なしで全力疾走し続けて、
心のエネルギーが空になってしまった状態だと。
精神科医にはそう説明されました。

 

 

 

一方で、まずはゆっくり休んでエネルギーをためて、
それから普段の生活を思い出すようにリハビリすれば、
必ず治る。風邪と同じように。
うつ病や躁うつ病はそういうものだ、とも。

 

 

 

診断が下ったのち、すぐに彼女の親と学校に相談し、
まずは1年休学し様子を見ることになりました。

 

 

 

 

心を患う、ということ

 

 

 

休学中に撮った写真がいくつか残っています。
数少ない外出の機会に、何の気なしに撮ったものです。
彼女も撮られることを特に嫌がるでもありませんでした。
単に、興味がなかったのかもしれませんが。

 

 

 

笑顔の写真もあります。ありますが、明らかに変なんですよ。
どれも、表情は笑っているようですが、目が全く笑っていません。
雰囲気でしか言えないですが、一目で違和感を感じます。
目の中央、瞳のあたりが、不自然なぐらい真っ黒に見えます。

 

 

 

日本人のスタンダードな瞳は黒いわけですが、あまりに力がない。
というか、何もない、と言った方が伝わりやすいかもしれません。
目は口ほどにものをいう、とよく言われますが、
当時の彼女の目には、意思や感情が全く写されていません。

 

 

 

当時、わたしも毎日彼女と過ごす中で感じてはいましたが、
今これらの写真を見ても、はっきりとそう思います。
なにもありません。ただ顔が形を変えているだけ。
心を患うというのはこういうことか、と、痛感しました。

 

 

 

実は、躁うつ病の診断を出てから、症状はぐっと悪化しました。
気分の上下の幅と入れ替わる頻度は、ひどければ1時間単位。
「自分は躁うつ病の患者なんだ」と認識することで、
意識が躁やうつに向きやすくなるから、という説もあります。

 

 

 

気分が高まれば、深夜にウェブで付けたこともないカラコンを
発注したり、発注したことを覚えていなかったり。
突如ホームベーカリーを買って、深夜1時過ぎからパンを焼いたり。
料理をしていて、思い通りにいかないとシンクにぶちまけたり。

 

 

 

パン焼きはうるさいからやめてくれとお願いしたら癇癪を起し、
飲めないお酒を飲んで酔っ払ってベッドに入ってきたり。
夜中に大音量で動画を見たり音楽を流したり。

 

 

 

本、テレビ、映画は、興味がないし内容がわからないから、
と全てやめてしまいました。
不眠はいよいよ深まってきて、睡眠導入剤を処方されていました。
夜中に活動して、導入剤が効いてきたら昼まで寝ている日々。

 

 

 

抗うつ剤も処方されていましたが、最初は相性が悪かったようです。
数種類試しましたが、一つ目はすごく酩酊感があったようで、
効いてくると足元がおぼつかなくなり、気分も悪くなりました。
家の中で転びそうになるので変えてもらいました。

 

 

 

二つ目は、底なしの食欲を感じるものだったようで、
一日中何か食べていました。
ピザのLサイズをほとんど一人で平らげた後、
ポテチのLサイズ一袋を続けて平らげたりしていました。

 

 

 

もちろん食べ過ぎなので、後で気持ち悪くなって戻したり。
毎日毎食そんな感じなので、摂取カロリーも膨大になり、
瞬く間に太ってしまいました。それでも食べたがる。
そんな自分に自己嫌悪して、鏡を見るのも嫌になって、
結果、うつ状態の落ち込みが深くなったりもしました。

 

 

 

先に触れたように、躁うつ病には躁状態とうつ状態があります。
心のエネルギーがなくなっているので、蓄えるのが第一です。
うつ状態ではまさにそんな感じなのですが、
躁状態の時はエネルギーの塊みたいな感じです。

 

 

 

エネルギーがないのに躁の時に暴走すると、
身を削った分だけうつ状態の時には反動でより深く落ち込む。
これはどうやら当たっているようです。
燃料がない車を無理に走らせるとエンジンが傷つくように。

 

 

 

そんな状態を繰り返すのは、本人が一番辛いです。
自分で制御できないのなら、なおさらです。

 

 

 
自分はひとりで何もできない。
できて当然のことも、今までできていたこともできない。
周りに迷惑をかけるばかりの、どうしようもないダメ人間。
自分なんていない方が、周りも幸せになれるに違いない。
みんなそう思っているに違いない。

 

 

 

メンタルヘルス状態のチェック項目にもあるような記載ですが、
実際に、当時の彼女が言っていました。
歪んだ思考ですが、そうに違いない、と当人は確信を持っています。
「病気が言わせているんだよ」と諭しても聞く耳なく。

 

 

 

 

 

 

ある日、電気も点けない暗い部屋の中で。
全くの無表情で、真っ黒な瞳で、愛する人が懇願してきました。

 

 

 

「死にたい。死なせて」
生きているのが辛い、死んだ方があなたにとっても良い、と。

 

 

 

忘れられる日は、きっと来ません。

 

 

 

 

色のない1年間

 

 

 

彼女の精神科受診に何回か同行しました。
「彼氏」という立場なので、ちょっと居心地悪かったけど。
診察後、わたしだけ残るよう言われ、先生から助言を受けました。

 

 

 

いわく、今の彼女には、考えたり判断するエネルギーがない。
普段なら何でもない検討や決断が、負担になる。
それができない自分を感じることも、大きな負担になる。
だから、代わりに考えてあげなさい。ただし、極力会話はすること。
「こうするよ、いいよね」と確認してあげなさい、と。

 

 

 

たとえば、今日の夕食に何を食べるか。
普段なら「何が食べたい?」と聞きますが、わたしが決めて、
「今夜はうどんにしよう、いいよね」と確認してあげます。
入浴や歯磨きも「そろそろしよっか」と促してあげる感じですね。

 

 

 

また、励ます言葉には要注意。
「頑張れ」「すぐよくなる」「君ならできる」とかはNGワード。
頑張れない自分、すぐよくなるはずがなれない自分、
できるはずのことができない自分はなんてダメなのか、と責めてしまう。

 

 

 

うつ状態には、周りにはこじつけに見える思考ででも落ち込みます。
まずは、とにかく「休むこと」に集中させてあげるそうです。
過保護に思えますが、熱を出して寝込んだらあれこれと世話を焼く、
それと同じだと思うことにしました。

 

 

 

治療期間中は、とにかくよく寝かせました。
朝は自然に目が覚めるまで起こしませんでした。
夜は、導入剤が効いて眠たくなれば寝るように言いました。
昼間だって、眠たければ寝ていいよ、と伝えて。

 

 

 

食事は、一緒に食べられる時はわたしがメニューを決めました。
都合、惣菜やデリバリーが増えました。
わたしが仕事で出ている時は、朝、昼と食べるものを用意しました。
ただし、おなかが空いたら食べてもいいよ、ぐらいで。

 

 

 

躁状態の時は、ある意味暴走するに任せました。
外出したくなればわたしもついていき、お金を使う事も
希望通りにやらせてあげました。
金額もたかが知れていることでしたし。

 

 

 

物を壊すことはなかったので、とにかく彼女が楽しめるように。
ただし、時間は短めに。無理な場合もありましたが。
躁状態から落ち着いた夜、特に落ち込みがひどかったです。
死にたい、というのもこの時が多かったですね。

 

 

 

泣きじゃくる彼女を抱きしめて、
死んでしまったらどんなに寂しいか、
何もしなくていい、いてくれるだけでいい、と宥めました。

 

 

 

わたしたちの場合、本当に幸運だったのは、診断から1年ほどで
「寛解」まで回復できたことです。
うつ病も躁うつ病も、治療の進み具合は個人差が激しいので
一概には言えませんが、数年かかることも珍しくないです。

 

 

 

うつ病、躁うつ病には、「完治」はありません。
再発の可能性はどうしてもありますし、
「今回のうつ病はこの期間からこの期間まで」と区切れないからです。
心の風邪と言われますが、ここが違うところですね。

 

 

 

寛解というのは、仕事を含め、日常生活に支障ない状態になった、
という意味です。
発症前と同じ生活を送ることができます。
発症の原因をそのままにしていたら、再発しますが。

 

 

 

 

 

寛解までの約1年間。
この時期ほど、自分の無力を痛感したことはありません。

 

 

 

精神疾患について何の知識もないので、
精神科医の指示や助言を忠実に守るしかない状態です。
彼女を力づけてあげたいけど、わたしの発言は
いたずらに彼女を追い詰め、負担を感じさせるだけかもしれない。

 

 

 

泣いている彼女の背中をさすりながら、
ここにいるだけでいいから、大丈夫、とか言いながら、
心に浮かんだ言葉を吟味して、結局かけられる言葉が見つからず、
壊れた蓄音機みたいに同じことばかり言っている自分。

 

 

 

病気のせいでそういった気持ちになっていることは
わかっています。わかっているのですが、
生きたいとすら思わせてあげることすらできない自分に
何の価値があるのか、と思ったことは一度や二度ではありません。

 

 

 

全て彼女のためだけに、できることは全てやりました。
その結果が今なのです。
だから諦めずに、治ることを信じて頑張りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんて、綺麗ごとで片づけられるものではありませんでした。

 

もう投げ出してしまいたい、いっそ別れてしまった方が楽かも。
それをしてしまうと、彼女は本当に死んでしまうかもしれない。
それは怖い。生きていてほしい。でも辛い。辛いからやめたい。
悩む夜もたくさんありました。

 

 

 

「どうしたらいいかわからない」
お酒の勢いで彼女に言ってしまった日もありました。
「わたしだってわからない!」と返され、二人で泣きました。
まあ、二人ともわからないですよね。今思えば当たり前です。

 

 

 

わたしがわたし自身を保つために、酒に逃げる日もあったし、
ごく少数の信頼できる人に吐き出すこともありました。
心の底の底は誰にも言えませんでしたが、
「頑張ってるね」と認めてもらい、背中を押してほしかったんですね。

 

 

 

とはいえ、仕事をこなしてから帰宅して彼女のフォローというのは、
正直、とてもきつかったです。
これがあと1年2年と続いていたら、わたしもうつになっていたかも。
実際そういったケースもあるようです。

 

 

 

片方の落ち込みにつられて二人とも落ち込むとか、なるでしょう。
片方が入院するか、二人とも実家に戻って治療に専念するか。
どう転んでも離散は避けられません。
家庭内が原因なのだから、救いがないですよね。

 

 

 

 

 

 
ある日の夜、仕事から帰って玄関を開けると、テレビの音がしました
長い間、わたしがスイッチを入れないとつくはずもなかったのに。
ニュースだったか映画だったか忘れましたが、
一人暮らしの時、彼女は「音がないと寂しいから」と、
見るでもないテレビをつけていたことを思い出しました。

 

 

 

とても驚きました。
同時に、目の前の光景に色が戻ったような気がしました。
その感覚は、今もはっきりと覚えています。

 

 

 

なぜ頑張るのか、何のために生きるのか、ということ

 

 

暗い話を長々としてしまって申し訳なく思います。
ですが、この経験は、今のわたしを形作る大きな基礎となりました。
大したことは全くできていませんが、わたしなりに
精神疾患やメンタルヘルスに興味を持ち勉強を続けています。

 

 

 

寛解から年月が経ち、彼女の了解も得て、
参加している活動の中で自分の経験を一部話すこともあります。
他の話題では寝落ちている人も、その部分だけは聞いています。
やはり実体験談というのは、身に迫るものを感じるようです。

 

 

 

人生にはたくさんの出来事が起こります。
わたしはそれほど長くは生きていませんが、
その中でもトップ5入り確実なきつい体験をしました。
そのおかげか、大抵のことは「なんとかなる」と思えるようになった。

 

 

 

そして、彼女をこれまで以上に、本当に大事に想うようになった。

 

 

 
闘病当時、相談した人には、別れることを強く勧められました。
まあ、例えば友達がそんな悩みを相談してきたら、
一回はわたしもそう助言すると思います。
その本人を、本人の人生を守るために。

 

 

 

わたしが投げ出さなかった大きな理由は、先に触れたように、
「わたしが逃げたらこの人は死ぬかもしれない」という
恐怖感だったと思います。

 

 

 

それでもいいや、とならなかったのは、
それだけ彼女が大事だったとも言えるでしょう。
が、それが全てだと、声を大にして言い切る自信はありません。

 

 

 

仮にもう一度、彼女以外の人と同じ状況に遭遇したら。
たぶん無理です。今度は早々に放り投げる確信があります。

 

 

 

もし、彼女が再発したとしたら。
これは現実的なリスクです。いつだって可能性はあります。
これはたぶん、また乗り越えられると思います。
根拠はありませんが、こう思えたことはわたしにとって、
大きなきっかけとなりました。

 

 

 

妻にとっても、生き方を見直すきっかけになったようです。
頑張りすぎるきらいがあること、ストレスをうまく抜くのが
苦手なことを自覚してくれました。
今は「疲れてきた」と自分から言って、仕事や家事から
手を抜くことがあります。時々。それなりに。

 

 

 

元々がストイックで学ぶことが好きな人なので、
仕事を3つ掛け持ちしていますし、年にひとつは資格に挑戦しています。
勉強が不十分で落ちることもありますが、
「サボったから仕方ないね」と二人で笑っています。

 

 

 

それでいい、と思います。

 

 

 

近年、過労死が日本で大きな問題になっています。
過労死には過労自殺も含まれることが多いですが、
過労自殺の最大のきっかけは、統計によると、精神疾患です。

 

 

 

精神疾患にもいろいろありますが、
うつ状態で自殺を選ぶことが多いようです。
大きく「自殺」で見ても、原因は経済的状況とか人間関係とか
様々ですが、やはりうつを患って踏み切ることが多いです。

 

 

 

うつになると、当然ですが、本人も周りも、とても辛いです。
文字にしてしまうとうまく伝わりませんが。
自分の感情の制御ができないし、考えることもできません。

 

 

 

妻が言っていました。
あの当時は頭の中にずっともやがかかっていたような気がする。
何をやって、何を思っていたのかほとんど覚えていない。
診断を受けて治療を始めてからは特に、覚えていないことが多い、と。
なぜか、夜中にパンを焼いていたのは覚えているらしいです。

 

 

 

周りも、どう接したらいいかわからないし、
なんて声をかけたらいいかもわからないです。

 

 

 

不用意な言葉をかけると、思ってもみない激しい反応が返ってきたり、
死にたいと泣いているのに、かける言葉が見当たりません。
うつ状態になっている相手の受け取り方がわからないので、
自分の感情を表に出すこともできません。特に負の感情は。

 

 

 

「何もできない」ただその実感だけが日々増殖していく感じです。
無力感と虚無感がずっと胸の中にあって、
それでも生活はしなければいけないです。
自分が言った何かをきっかけに、相手が自殺に踏み切る可能性もあります。

 

それは、純粋に、恐ろしいことです。
その恐ろしさといつも向き合っていなければいけません。

 

 

 
命が削られていく実感があります。

 

 

 

今思えば、もしかしたらその感じ方自体が、
うつへの入口だったのかも知れません。

 

 

 

うつや精神疾患は心が弱い人がなるとか、たるんでいるとか。
そんな前時代的で盲目的な、くだらない誤解をしている人が
いまだにいます。
全く違います。

 

 

 

それぞれのケースで原因が異なるので一概には言えませんが、
まじめで責任感が強い人が頑張り過ぎた結果、
自分のキャパを超えてしまってなることが多いです。
そしてキャパは、人それぞれです。

 

 

 

周りからはまだ余裕があるように見えていても、
本人にとってはもう限界、ということもよくあります。
肝心なのは、本人のキャパを超えないことで、
周りからどう見えるか、ではありません。

 

 

 

こんな思いをしてまでやるべきことって、何かあるでしょうか。

 

 

 

いい学校に行くとか。
いい会社に就職するとか。
周りから尊敬されることをするとか。

 

会社を大きくするとか。
利益を増やすとか。
お客さんに満足してもらうとか。

 

従業員の生活を守るとか。
銀行への返済をするとか。
株主に利益を還元するとか。

 

 

 

語弊を恐れずに言うと、何もないと思います。
どれも仕事や職務上は重要なことですが、
自分や愛する人の命を削ってまで得る価値は、全くないです。

 

 

 

さっさと放り出してしまうべきです。
そうならないように手を打つ必要はありますが。

 

 

 

唯一の例外は、命を守るため、だけでしょう。
つくづくわたしは、カウンセラーや精神科医にはなれないですね。

 

 

人生において、自分を磨くこと、働くことは必要です。
ただ、何のためにするのか。何を目指してするのか。
それを見失ってはいけないと思います。
理由は人それぞれでしょう。

 

 

 

自分のため、誰かのため、生きがいのため。

 

 

 

わたしの場合は、愛する人、家族と幸せに生きていくため、です。
わたしが考える幸せから遠ざかったり壊すようなものは、
変えたり排除しなければいけません。

 

 

仕事も生活も努力も、時には嫌なことを耐えるのも、
幸せに生きていくためになればこそ、です。
わたしは、これが自分の生き方なんだと、胸を張って言えます。

 

 

 

あなたはどうでしょうか? 


人生で譲れない5つのこと

 

「今のあなた、何をしていますか」
「楽しんで生きていますか」
「この地をもう一度踏んでいますか」

 

 

 

未来のわたしに宛てた、わたしからのメッセージ。
受け取って感じたことは…

 

 

 

あこがれのイタリツアーへ

 

 

結婚が決まったら、まず何をしますか?
お互いの親への挨拶、友達への報告、式をするかどうか、予算組み。
両家顔合わせ、結婚式の会場選びと日程調整、料理の試食と決定、
レイアウトとか花とか演出をどうするか、衣装合わせもろもろ。

 

 

 

たっくさんありますが、大きなイベントがハネムーンですよね。
行くかどうか、国内か海外か、何日間行くか。
これも考えることがたくさんあります。

 

 

 

わたしの周りの人も様々です。
九州へ温泉旅行、沖縄でリゾート、北海道一周食い倒れ。
ハワイ、グアム、アジア周遊、オーストラリア、アメリカ、北欧など。
ヨーロッパも多いですね。

 

 

 

わたしと妻の場合、ハネムーンへ一番予算をまわしました。
フランスやドイツも周れる数カ国周遊プランもありましたが、
休みは一週間ほどしか取れないし移動時間ももったいない。
ということで、イタリア一つに絞りました。

 

 

 

なぜ、イタリアなのか。理由はいくつかあります。

 

まずわたしも妻もパスタ、ピザに目がない。トマト大好き。
肉や魚介を食べない妻でも楽しめる料理がいくつもあります。
シンプルなトマトパスタとかマルゲリータとかブルスケッタとか。
わたしが一番好きな白ワインには、イタリアンがよく合います。

 

日本など比べ物にならないほど歴史ある史跡、美術品、街並みが
生活の中に溶け込んでいます。いるはずです。
フィレンツェでは教科書レベルの彫像が手の届くところにあり、
世界的にも珍しい水の都ヴィネツィアはぜひ訪れたい場所です。

 

 

 

ということで、ヴィネツィア→フィレンツェ→ローマの
三都市周遊ツアーへ行ってきました。

 

 

 

初秋なのに汗ばむぐらいの暖かさで、空は抜けるように青かったです。
建物と空の青とのギャップがあり過ぎて、むしろ嘘っぽいぐらい。
ハネムーナー向けだったので、同行者の日本人はみんなラブラブ。
気分ウキウキ、食事は美味しい、街並みや史跡は予想以上の美しさ。

 

 

 

 

幸いに悪名高いスリに遭うこともありませんでした。
スペイン階段でジプシーの人に囲まれかけましたが。

 

 

コロッセオ前で「愛の告白と未来へのメッセージ」録画という
なかなか照れの入るイベントをこなし、

各都市を移動する3時間のバスは風景観光と体力回復に充て、

石畳の街並みが足に与えるダメージに驚きつつ歩き回り、

仕事よりもおしゃべり優先なイタリアの人たちの自由さに感じ入り、

史跡を訪れる予定を入れすぎてちょっとケンカしたり。

 

 

 

足の筋肉痛とともに、すっかりハマって帰ってきました。
再訪を固く誓って。

 

 

連れて行ってもらうのではなく、次は自分たちで

 

 

ハネムーンのあとの3年間で、仕事、生活上の変化がありました。

 

 

 

仕事の上では、わたしが研究から営業へ異動したこと。
勤務場所が遠くなったため、通勤時間が往復4時間近くなったこと。
海外顧客をいくつか担当し、年5回ほど海外出張もあること。
仕事で英語を使う機会が増え、会社補助で英会話学校に通い始めたこと。

 

 

 

生活の上では、結婚に伴い引っ越したこと。すぐ異動になりましたが。
妻の仕事がついに3つになったこと。リスクの分散達成です。
わたしの収入が月平均で5万ほど減ったこと。
営業は残業がつけれず、また会社業績の悪化で一時金が減りました。

 

 

 

衣食住に困り果てるわけではない、でも余裕はない、ほどほどの生活。
結婚生活と営業の仕事にも慣れてきた、結婚3年の節目。
妻と出会ってちょうど10年というキリのいいタイミングでもあり、
その年は大きな出費予定がない、ということもあり。

 

 

 

どちらからともなく、イタリアへ行こうか、という話が出ました。
例えば添乗員なしのHISの安いツアーなら費用が捻出できるかも。
貯金は少し残しながら、夏の一時金を全部充てれば、あるいは。
そんな感じでプラン作成に入りました。

 

 

 

ローマのあの店はもう一度行きたい。あの美術館に行きたい。
ヴァチカンは15分しか時間がなかったから、1日かけてまわりたい。
コロッセオは工事中だったから、中に入ってみたい。

ヴィネツィアは雰囲気が素晴らしかった。少し生臭いけど。

 

 

前回は夜について翌々朝早く発ったので、ゆっくりしたい。
ガラス工房や宮殿はもういいけど、街をそぞろ歩きしたい。
行けなかった島にも行ってみたい。ゴンドラは1回乗ったしいいか。

 

 

 

フィレンツェは街並みが本当に素晴らしかった。
ドゥオモ(花の大聖堂)にももう一回登りたい。

 

 

とわたしは主張しましたが、妻いわく「飽きる」だそうで。
次の機会に検討ということで、フィレンツェは外されました。

 

 

 

ナポリ、ミラノ、アマルフィ、トリノ、ヴェローナなど
候補地はまだまだありましたが、
今回は「心残りの解消」「二回目のハネムーン」という主題にし、
ローマ→ヴィネツィア希望で決定しました。

 

 

立ちはだかる、自分の中の壁

 

 

旅行というものは、行ってからももちろん楽しいですが、
計画を練っている時が一番楽しかったりします。
ここに行きたい、あれをやりたい、これを食べたい。
やりたいことをとにかく挙げて、選ぶ過程はワクワクするものです。

 

 

 

そして、一番の難関は、わたしは実行に移すこと、だと思います。

 

 

仕事を休める時期、休める準備ができるかを考える。
旅行会社へ行って相談する。あるいは、必要な手配を自分で調べる。
費用を予算と照らし合わせて、何を削るか増やすか決める。

特に海外旅行となれば、必要な休みは長くなるし、費用もかさみます。

 

 

わたしはもちろん、たぶん大部分の日本人は、
長期の休みを取ったり大きな買い物をすることに慣れていません。
「よし」と思って計画しても、いざ実行という時に怯みます。

 

 

 

ハネムーンであれば結婚という大きなイベント(と出費)の最中だし、
こんな時ぐらい、という気持ちもあるので、障壁は高くなかったです。

 

 

一方、今回は「2回目のハネムーン」とテーマ付けはしていても、
実態は普通の海外旅行。しかも貯金の大部分と一時金全額を使う。

我ながらビビるのも無理はないと思います。
というか、よくやったな(笑)

 

 

 

まずはHISへ行き、パンフをもとに担当の方と話しながらツアー選定。
添乗員なし、交通とホテルのみの手配で、二人で40万円ぐらい。
オプショナルツアーと食費と買い物もろもろでプラス20万円ぐらい?
ヨーロッパ旅行の費用としては安い方ですが、大きい金額です。

 

 

 

60万円あったら…めっちゃいいテレビとパソコン買える…。

 

 

 

そこはぐっと飲みこんで、とりあえずツアー予約を完了。
半年以上先の話なので、手付金の振り込みも数カ月先。
キャンセル料の発生はさらに先なので、
詳細をじっくり考える時間があります。
オプショナルツアーは別途申込なので、それも含めて。

 

 

 

一息ついて帰宅して。
ここでふと思いました。

 

 

 

あれ、添乗員なしってことは、飛行機乗り継ぎとか
ホテルで何かあった時の交渉とか、自分たちでやるんよね?

前回フランクフルトで乗り継ぎの時、時間なくて走ったよね?
今回はドバイ経由やけど、初めての空港で大丈夫?

 

 

 

前回は5ツ星ホテルにグレードアップして部屋に問題はなかったけど、
今回はそこまでお金かけられへんから3ツ星レベル。
浴槽がなかったりお湯が出なかったり電気が切れたり、
いろいろトラブルあったりするって聞いたけど、大丈夫?

 

 

 

ローマの空港からホテルまで送迎付きやけど、
イタリア人のドライバーが来てくれるらしい。
日本語はもちろん不可、英語が通じるかもケースバイケースって…
合流できんかったらやばいんちゃう?大丈夫?

 

 

 

妻は英語の聞き取りはそこそこできるけど、話はほとんどできない。
尋ねたり交渉したりは全部わたしがやるけど、大丈夫?

 

 

 

わたしも海外出張経験が増え、英会話学校に通っているとはいえ、
行ったのはせいぜいが韓国とインド。
しかも日本語通訳ができる人同行。わからなければ聞く人がいる。
今回の旅行の守備範囲はレベルが違いそうです。

 

 

 

おお、不安になってきた…。

 

 

情報の海に勝るものは、たった一人の先達

 

不安があるなら解消するしかない。
ということで。
ウェブや本、わたしや妻の人脈をフル活用で調査をしました。

 

 

 

今の時代、ウェブ上にたいがいの情報はあります。
公式なものであったり、誰かが経験したことを書いていたり。
ドバイ空港内の状態や乗り継ぎ所要時間ももちろんあります。
一通り見て思ったのは。

 

 

 

でっか!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

韓国の仁川空港もなかなか大きいと思っていましたが、
比べ物にならないですね。
複数階建ての関空並みのターミナルが三つもあるわー…。

 

 

 

ドバイ発着時の詳細は二カ月ぐらい前までわからないらしいけど、
夜中になることは確実。
流石に夜中は空港職員も少ないらしいので、
現地で道を聞ける人も少ないわけです。

 

 

 

真っすぐ、寄り道せずに乗り換えても20分ぐらいはかかりそう…
まあ、時間さえ十分あればいけるんやろうけど…。
タイトそうなら、事前にHISの人に聞けばいいか。

 

 

 

ホテルでのトラブルについては、
たくさんのブログ記事が参考になりました。
最初の心構えとしては、何もない、なんてことは期待しないこと。

 

 

 

施錠ができなかったり。
毛布に何か虫が住み着いていて咬まれたり。
怪しげな集団が隣室で騒いでいたり。
トイレが詰まっていて流れなかったり。排水管に穴があったり。

 

 

 

みたいな致命的なトラブルは、イタリアではなさそうです。
三ツ星以上のホテルなら。中国や東南アジアの安宿みたいには。
ただし、電気がつかなかったり、お湯が出なかったり、
バスタブがなかったり、トイレに便座がなかったりはするそう。

 

 

 

日本人は驚いてしまいますが、
便座がないのは結構スタンダードです。
汚れるから、というより、持ち去られるからだそう。
持って帰ってどうするのかはさておき、ハネムーンの時も
便座がついていたのはホテルのトイレぐらいでした。

 

 

 

とはいえ、電気がつかなかったりお湯が出ないのは困ります。
そんな時は、言葉が通じなかろうが何だろうが、とにかく主張する。
部屋に見に来てもらう。直るまでしつこくお願いする。
だそうです。どこの国でもさして変わりませんね…。

 

 

 

ドライバーとの合流は、どうやらそれほど心配いらなさそうです。
名前を大きく書いたプラカードを持っているし、
最悪合流できなければ、HISのカスタマーセンターへ電話する、と。

 

 

 

一番注意しなければいけないのは、手配された以外の人に
ついて行ってしまうこと。
大きな空港には客引きがわんさかいて、どんどん声をかけてきて、
質問しても「そうそう」と答える人もいるらしく。

そんな人の車に乗ってしまうと、後々面倒なことになる。

 

 

なるでしょうね。想像に難くありません。
事情通の人なしに初めて行く旅慣れない身にとって、
これは役立つ情報でした。

 

 

 

と、いろいろ調べているうちに、年に数回イタリアへ行く人が
妻の知人にいるとのこと。
なんとなんと、大先生が身近にいらっしゃると。ありがたや。
不安に思うことを妻に根掘り葉掘り聞いてもらいました。

 

 

 

ウェブ情報を頭から疑っているわけではないですが、
どうしても、顔が見えない人からの一方通行になりますからね。
信頼できる筋からの裏付けがあれば、やはり安心できます。

 

 

 

英語が通じるかどうかというところは、
観光地であれば特に問題なし、とのこと。
というか、多くの日本人の方がよっぽど英語話せないので
いらん心配はしないでいい、とアドバイスをもらいました。

 

 

 

ちなみに大先生は、イタリア人と恋人になれるぐらい
イタリア語堪能だそう。

 

 

 

訪れる史跡やレストラン調査のために買った「地球の歩き方」から
交通システムの違いやチップ、宿泊税とかもろもろの知識を足して、
大先生からの教えも乞うて、重たい腰も完全に上がりました。

 

 

 

あとは行ってみるべし!

 

 

天変地異は何の前触れもなく

 

 

手付金の支払いも滞りなく完了し、あとはフライト確定次第、
オプショナルツアーを予約するのみ。

 

 

 

というタイミングで、風邪をひきました。
夏風邪ですね。
インドへ一週間出張し、週末挟んで韓国へ一週間出張という
なかなかハードなスケジュールで疲れがたまっていたようです。

 

 

 

とはいえ、出張でオフィスを空けると仕事がたまっているわけで。
折悪くお盆の連休前、処理しておかなければいけない仕事もある。
一日休んで病院に行き(夏風邪と診断されました)、
翌日から出社しました。後から思えば、これがよくなかったんですね。

 

 

 

薬を飲み、夜はできるだけよく寝るようにしながらなんとかお盆へ突入。
妻の実家、私の実家へ帰省し、療養に努めました。
が、連休半ばから扁桃腺が痛み出し、熱はないものの日に日に酷く。
当然病院が開いているわけもなく、鎮痛剤でごまかしていました。

 

 

 

お盆明け最初の出社時に会社の産業医へ行きましたが、
産業医のお盆休みが一日長くて診てもらえず。
次の日休みをもらって耳鼻咽喉科へかかり、抗生物質ゲット。
やはり扁桃炎にはよく効くようで、次の日から出社しつつ、
日増しによくなっていくのを実感しながら週末を迎えました。

 

 

 

ここで終わればよかったんですがね。
時すでに遅し、だったようです。

 

 

 

処方された抗生物質を全て飲み終えた金曜の夜、扁桃腺が再び痛み、
明らかに腫れ始めました。口蓋垂も腫れ、舌の上に乗るほどに。
唾液を飲み込むのも痛く、一回ずつ「やるぞ」と気合が必要な感じ。
口を開けるにも顎関節が痛く、2cmも開けられない状態に。

 

 

 

土曜日、扁桃腺の腫れは変わらず、右側だけに疼きが加わりました。
とはいえ、何もしなくても扁桃腺にきつい痛みががあるので、
いまさら疼きが増えたところで気にもなりませんでした。

 

 

 

日曜日の朝、異変に気付きました。
口の中、喉の方まで、異様に狭い。
鼻から息はできるけど、口からしようとすると、狭まった喉の奥に
口蓋垂が引っかかったり詰まったりして、息がしにくい。

 

話をするにも、口の中の空間がほぼないので舌が動けず、
音も響かず、明瞭に発音できない。
生まれて初めての事態です。

 

 

 

ベッドから出て、鏡で口の中を見て愕然としました。
第一印象は「なにもない」。本当にそう見えました。

 

 

 

顎が痛くてろくに口が開かないとはいえ、普段なら空間と
奥の方に口蓋垂が見えるじゃないですか。
スマホのライトで照らしてみると、舌も空間も口蓋垂も見えず、
歯のすぐうしろに肉の壁があって、おしまい、という状態でした。

 

 

 

いや、本当に、ぞっとしました。何これ…という感じ。
熱もプラス3℃ほどあったので、悪夢を見ているのかと思いました。

 

 

 

よくよく見てみると、口の中、左の奥に肥大した口蓋垂が。
周りにほとんど空間なく、舌の奥に「でん」と乗っかっている感じ。
唾液を飲み込んだり舌を動かすと、明らかに触れている感覚があります。

 

どうやら口の中の右側がめちゃめちゃに腫れて左側にせり出し、
ほんの小さな穴になった喉の入口を、腫れた口蓋垂が蓋をしている。
そんな、悪い冗談みたいな状態になっているようです。

 

 

 

日曜日は熱も高く、ほとんど飲食できなかったので休養し、
月曜日の朝一番、妻にも付き添ってもらって病院へ行きました。

 

 

 

先生が口から喉を一目覗き、鼻からカメラで気管を診て一言。
「このままじゃ死にますよ。今すぐ緊急入院です」

 

 

 

 

診断名は「扁桃周辺膿瘍」。なんですかそれ?

 

 

 

扁桃腺に溜まった膿が膜を破って外へ広がり、
扁桃腺の周辺や口蓋垂、口蓋が腫れあがる症状だそうです。。
腫れが進んで気管に達すると呼吸ができなくなって死に至る。
その状態まで、あとほんの一歩です、と。

 

 

 

「死にますよ」なんて、初めて医者に、はっきり言われました。
身体は比較的元気なので、現実感はほとんどなかったです。
死ぬって言われたら、もう黙って従うしかないですよね。
仕事なんて全部後回し、まずは死ぬ心配がない状態回復です。

 

 

 

その日にかかった病院で処置できるレベルではないということで、
先生が近くの総合病院を指定し、推薦状を書いてくれました。
すぐ家へ帰って数日分の着替えや身の回りの物を用意して、
タクシーで指定された総合病院へ。

 

 

 

通されたのはなんと救急。
海外ドラマとかで見る、白衣ではない色の違う服を着た先生も
一目見るなり「すぐ入院です。書類にサインしてください」

 

 

 

こんなに症状が進むまでなぜ放っておいたのか、と怒られました。
気管が腫れたら数秒で死に至ることをわかっているのか、と。
ごめんなさい、全然わかっていませんでした。
というか、想像もしていませんでした。

 

 

 

抗生物質をがっちり点滴されながらいくつかの書類にサインをし。
入院の手続きを終えた時点でお昼過ぎ。

 

 

そこからMRIとかいろいろと検査をし、共通の病室へ移り、
妻に追加の着替えやら暇つぶしの本やら持ってきてもらい。
長い一日が終わり、長い入院生活が始まりました。

 

 

 

柔らかい食事を取る許可が出たのが3日目。
扁桃腺に注射針を刺して膿を抜く処置が6日目。
膿を抜いて腫れが完全に引き、通常食が出たのが8日目。
退院の許可が出たのが、9日目のお昼でした。

 

 

 

退院した日は抜けるような快晴。
あの空の青さと、病院特有の饐えたにおいのない空気と。
最初に食べたうどんのおいしさ。
忘れようがありません。

 

 

 

まるまる9日間。
お粥メインですが食事はしっかり採って、
ろくに動かなかったのに体重は4キロほど減っていました。
退院後しばらくして、しっかり元通りになりましたが。

 

 

 

そして、本を読む時間と考える時間だけはたっぷりあった9日間。

 

 

 

営業に移るまでは月に3、4冊は本を読んでいました。
異動してからは、業務外まで食い込んでくる仕事や接待に追われ、
この数年間はほとんどゼロ。
片道2時間の通勤時は新聞を読んだ後は意識が途切れるような感じで、
妻に薦められた本ですら、読もうという気すら起こりませんでした。

 

 

 

その分を取り返すように、9日間で15冊ほど読破しました。
SF、フィクション、ビジネス書、1日で読める韓国語などなど。
日付が変わっても夢中になって、看護師さんに注意されるぐらい。
楽しかったです。

 

 

 

やっぱり、人生には読書は必要だと痛感しました。
知識ももちろんですが、自分とは違う考え方や感じ方、
自分が知らない世界のことを知れます。

これは、誰かと交わるか、本を読むことでしか得られない。
その機会のない人生なんて、なんて薄っぺらでつまらないか。

 

 

 

そんな機会をくれる人は貴重です。どこにでも、はいません。
出会いや交流を自分から求めないと得られない。
また、全ての本がそんな機会をくれるわけではなく、
これもある程度数をこなさないといけない。

 

 

 

そのための時間を確保するのは、お客さんや社内の誰かに
おべっかを使ったりご機嫌を取るより、よほど価値がある。
そう、改めて思いました。

 

 

 

また、仕事の合間を縫って毎日来てくれた妻。
加えて、急な知らせを受けて顔を見に来てくれた家族。
心配して連絡をくれた友人たち。

 

 

 

わたしは一人ではない、ということがしっくり心に落ち着きました。
気にかけたり必要としてくれる、かけがえのない人がこんなにいる。
特に今回は、もう一歩遅ければ死んでいた可能性がありました。
そして、人はこんなにもあっさりと死んでしまうものなのですね。

 

 

 

頭では理解していたけれど、本当にわかってはいなかったようです。
わたしが健康で、元気に、充実した生活を送ることが
かけがえのない人たちへの一番のお礼になる。
そんなことに気付く機会になった入院でした。

 

 

 

もうちょっとだけ、イアタリアに踏み込めた旅

 

 

退院から数カ月。
入院中に決まった会社イベントの日程と旅行が重なって有給取り消し、
運よくツアーの日程変更ができてしかも少し料金が安くなったり。
いろいろありましたが、何とか踏んだイタリアの地。

 

 

 

結局、心配したことはほとんど全て、杞憂に過ぎました。

 

 

 

オプショナルツアーで取れなかった美術館は、
国際電話で直接予約を試みるも繋がらなかったので、
予約代行業者に頼んで無事に予約できました。
調べてみれば、だいたいのサービスはあるものですね。
しかも2人分で1,000円。費用対効果を考えれば十分です。

 

 

 

ドバイ空港での乗り継ぎは3時間弱あり、
だだっ広いけど案内標識があったので迷わず、
買い物と軽食を取る余裕までありました。
首がカタカタ上下するアラビア人男性の人形が面白かったです。

 

 

 

ローマの空港の送迎は、名前を書いたプラカードは持っておらず
「HIS」の表示のみ。しかも複数人いる、という困った状況でした。
HISのプラカードを持った人に片っ端から声をかけていくと、
3~4人目でちゃんと出会えました。

 

 

 

お互い片言の英語で名前と行先は確認できましたし、
ホテルまでのおよそ1時間の道中も、ぼちぼちと話ができました。
渋いおっちゃんで、イタリアの男性だからというかなんというか、
彼はほとんど妻に話しかけていました。

 

 

 

観光地だから、ということもあるでしょうが、
今回の旅で話したイタリアの人は全員、英語で意思疎通できました。
ここは妻の知人の大先生のおっしゃる通りでしたな。

 

 

 

チェックインとチェックアウト、買い物、食事はもちろん。
急に雨が降ってきて傘が必要になった時も、
オペラ劇場で見学の申し込みの仕方がわからなかった時も、
案の定ホテルで電気がつかなくなった時も、
わたしの拙い英語でも不自由なく過ごせました。

 

 

 

こちらが何とか伝えようと身振り手振り話しかければ、
あちらも何とか理解しようと真剣に聞いてくれます。
日本人よりずっと英語に堪能な人が多いので、
返事はわかりやすい簡単な構文で返してくれました。

 

 

 

ここらへんはもしかしたら、英語に苦手意識がある日本人の方が
不親切なのかもしれません。
「英語はわからないよ」「どう説明すればいいかわからない」で
話を切ってしまうこともあると思うので。

 

 

 

また、今回の旅で感じたのは、
イタリアの人は楽しんで生きているということ。
わたしたちが目にしたのは当然ほんの一部だけですが、
自分の人生を大事にしているように感じました。

 

 

 

例えば、スーパーのレジ打ちや美術館の受付。
仕事中に隣の人と楽しそうに話しているし、
電話がかかってきたら直ぐに出る。
手が止まったり遅くなって行列ができてもお構いなし。
並んでいる客も特にイラつくでもなく待っている。

 

 

 

例えば、ホテルの従業員。
連泊したお客さんが出発する朝なのか、
朝食会場でハグをして「楽しい時間をありがとう」とか言っている。
料理を出すときに、待っているお客さんに
「スペシャルな料理、お待たせ」と声をかけて笑顔にさせる。

 

 

 

例えば、雑貨屋の店員さん。
入店時に客が「チャオ」と声をかけるのがマナーですが、
「チャオ」と答えたあとに「どこから来たの」とか、
「このお皿は自分が絵付けしたオススメよ」とか、
「この棚のノートは自分が紙漉きしてマーブル柄を入れたの、
綺麗でしょう」とか、話をします。

 

 

 

何も買わなくても、気を悪くするどころか、
「楽しんでね」と送り出してくれる。

 

 

 

例えば、朝のラッシュ時の地下鉄。
混雑していて、日本とは違って特に並ぶでもないので、
車両の入り口や社内で身体がぶつかることもあるわけですが、
自然に笑顔で「失礼」と声がかかる。老若男女問わず。

日本ではまずないですよね。
ぶつけた方が迷惑顔で睨みつけることすらあります。

 

 

 

また、ローマやヴィネツィアは大観光地ですし、
通勤してくる人も多いですが、足早に急ぐ人はそれほどおらず、
どこか余裕すら感じさせます。
日本に比べると時間にルーズ気味ということはあるとしても、
仕事に急ぐよりも同行者とのおしゃべりを楽しんでいる感じ。

 

 

 

例えば、雑貨やバッグなどのお店は昼休み2時間というところ。
さすがにレストランやカフェは開いていますが、
きっちりCLOSEの札を出し、次は15時開店と書いてある店も。
昼休みが長い分、閉店も21時とか遅めの場合が多いです。

 

 

 

お昼は一旦帰宅して家族と食事をするのが一般的。
食事の時間も日本の感覚とはズレていて、
昼食は13時~15時頃、夕食は20時~22時頃が普通だそう。
基本的に、食事は家族と一緒に、ゆっくりと。

 

 

 

これは、前回のツアーの添乗員さんも言っていたし、
旅行本にも書いてあることですが、今回、実際に感じました。

 

 

嫉妬と憧れ

 

今回感じた、日本とイタリアの感覚の違い。
「文化の違い」と言ってしまえばそれまでですし、
「それどうなん?」と思う部分も確かにあります。

 

 

 

行列お構いなしで話している店員とか、
監視業務そっちのけで電話している美術館の監視員とか、
ちっとも時間通りに来ない電車とか、
そもそも時刻表のない路面電車とか。

 

 

 

旅の最後、ヴィネツィアからの帰りに空港へ送ってくれたのは
現地の旅行代理店に勤める、日本人の女性でした。
旅行でイタリアにどっぷりはまって移住を決意し、
語学学校に通ったのち、現在はイタリアの方と結婚しているそうです。

 

 

 

彼女に、イタリアに移住した感想を聞いてみました。
曰く、

 

イタリア人は仕事相手としては適さない。
日本人の感覚からすると、時間や納期にルーズ過ぎる。
失業率は高いし、政治もなかなか安定せず、賃金は高くはない。
インフラ代が高く、常に電気と水は常に節約しないといけない。

 

ただし、生きていく場としては大いにオススメする。
底抜けに明るい人が多い。特に南部。
できる範囲で最高の生き方、楽しみ方を考える。
自分と他人が違うことを、そのまま受け入れる土壌がある。
誰かが自分に露骨に合わせてくると、むしろ気味悪がる。

 

 

 

プラス面に関して、今回、わたしたちが肌で感じた印象は
間違いではない、ということが裏付けられました。
それと同時に、強烈な嫉妬と憧れを感じました。

 

 

 

今のわたしの現状を見ると。

 

 

 

何とか生きていくだけのお金は得られています。
今回のように、たまーに海外旅行にも行けます。
親の介護や自分たちの将来への備えを考えなければ。

 

 

 

仕事で特定の国へ出張で行けます。
今回の旅のように、文化を肌で感じられるような余裕はありませんが。

 

 

 

平日はほとんどの時間が業務に占められます。
夜は20時頃まではONモード、接待があれば24時頃まで。
時には休日も。
業務を超えた「仕事」を考える余裕が取れないことも悩みです。

 

 

 

家族と過ごすための時間、自己研鑽や将来のために充てる時間が
もっと必要だと感じていますが、今以上に増やせない状況です。
今の会社では、仮に昇進していった場合、
今後もっと減っていくように感じています。

 

 

 

わたしの考えとして、相手は相手、そのままを受け入れたいです。
また、自分の考えは曲げずに持っていたいです。
受け入れられるかは別として。
でも、特に仕事の上では、どうしても曲げたり
飲み込んだりせざるを得ない時があります。

 

 

 

うまく進めるためのすり合わせは必要だとは思いますが、
根本的な部分で納得できず押さえこまれると、
どうしようもなく窮屈に感じます。

 

 

 

社会の一員として、家族と共に自分らしく生きていくためには、
仕事は仕事、家族は家族とどこかで割り切って、
我慢する部分、諦める部分も飲み込むしかない。

平日はほぼ全ての時間を会社に割り振って、
週末や休日の残った時間を家族に、自分に振り向けるしかない。

 

納得いかない部分は、長い時間がかかるけど会社を変えるしかない。
自分がリタイアするまでにできたらいいな、ぐらいのスパンで。

 

 

 

そう、ある意味諦めていたわたしを、
イタリア旅行で確信した風土はどうしようもなく惹きつけました。
イタリアへの移住方法を本気で調べるほどに。

 

 

 

人生は楽しんでいい。
楽しんで生きている人がそこにいる。
そう思ったからです。

 

 

 

譲れない幸せの条件。それを手に入れるためには。

 

 

「今のあなた、何をしていますか」
「楽しんで生きていますか」
「この地をもう一度踏んでいますか」

 

 

 

ハネムーンの時にコロッセオの前で収録した、
未来のわたしに宛てた、わたしからのメッセージです。
思ったことを口にしただけで、イタリアにまた来たいなぐらいの
つもりでしたが、心に刺さるものがありました。

 

 

 

「楽しんで生きていますか」

 

 

 

確かに、それなりに楽しく思うことはあります。
ただ、楽しんで生きること、生きることを楽しむこと。
楽しむだけなく、幸せに生きること。
これは、諦めてしまっている部分があります。

 

 

 

イタリア旅行で感じた、人生を楽しむということ。
非常に強く憧れるのですが、それだけでは不十分です。
それではまだ、諦めなければいけない部分があります。

 

 

 

仮にイタリアへ移住したとして、働き方が今と同じであれば、
家族や自分のための時間は結局増えません。
まず乗り越えるべき言葉の壁もあります。

 

 

 

また、収入面のこともあります。
親のため、自分たちの将来のために必要な金額を試算してみると、
今のレベルでは到底足りません。

 

今のまま給与が増えていけば届く日も来るでしょう。
20年後ぐらいに。年功序列のままいけば。可能性は低いですね。
親の介護費用は、その時にはとっくに必要になっています。
時間切れで不自由な晩年を過ごさせてしまっている可能性も。

 

 

 

わたしの人生にとって譲れないことは何か。

 

 

帰結するのは、家族と共に幸せに生きていくことです。
そのために必要な収入、時間の使い方、人間関係、
そしてそれを実現できる場所。

家族、お金、時間、人間関係、場所。

 

この5つはどうしても諦められないことです。
これらを同時に手に入れるにはどうすればいいか。

 

 

 

今の会社には答えがない、これは確実です。
このまま続けても、5つのうち1つが精いっぱいでしょう。
変えていくにも時間がかかりすぎ、タイムオーバー。

であれば、実現できる環境はどこにあるのか。
作るためには今、なにをすべきなのか。

 

 

 

それを模索しています。
情報を集め、人脈を作り、実践を始めています。
今まではどこかで諦めてしまっていたことを実現するために。
人生を楽しむために、わたしなりに幸せに生きるために。

 

 

あなたにとって、人生でどうしても譲れないことは何ですか?


「よく生きる」ための1つだけの条件

 

 

わたしの祖父は91歳で逝きました。
近年の統計を見ても、大往生と言えるでしょう。

 

 

 

その祖父が今わの際まで心配していたのは、
同じく高齢になった祖母のこと。

 

 

 

残してやれたのは、保険と積み立て金と市営住宅の狭い部屋だけ。
認知症も出てきたし、働いたことがないので社会の仕組みにも疎い。
高齢になって物欲が増えたようで、お金のやりくりも不安。

 

 

 

何を誰に任せて、どれを処分して祖母のこれからに充てるか。
聡明な祖父らしく、できる範囲のことをしっかりと準備しました。
その過程で、祖父がどれだけ祖母を慈しんでいたか、感じました。

 

 

 

それは真っすぐに羨ましいと思います。
自分も見習いたい。
それは間違いない。
ないのですが…。

 

 

 

厳しくも優しい。実は、子供の頃は苦手だった。

 

母方の祖父は、一言でいえば、昭和の男性。
いつも背筋が真っすぐで、今の基準で言えば小柄な方ですが、
顔つきは厳めしく手のひらは大きく硬く、声も大きく。
筋骨逞しく、子供が怖がる感じでした。

 

 

 

わたしが子供の頃は、顔を合わせるのは一年に数回でした。
正月、お盆、わたしの誕生日、あとは旅行のお土産があるときぐらい。
誕生日とクリスマスには、ファーブル昆虫記を1冊ずつ。
それが終わればシートン動物記を1冊ずつ。

 

 

 

本を読む人に育ってほしい、自然や歴史に興味を持ってほしい。
そういう意味だったのだと思います。
祖父の本棚には司馬遼太郎や池波正太郎の本が並んでいました。

 

 

 

父方の祖父がゲームやお菓子をすぐ与えてくれる人だったので、
そちらと比べてしまっていたのでしょう。
子供心に、なんとなく苦手でした。

 

 

 

祖母は、料理が本当に上手な、おっとりした人です。
煮物が得意で、特に正月に炊いてくれる黒豆は絶品。
大人になってからは外でも黒豆を食べもしますが、
あんなレベルのものには出会ったこともありません。

 

 

 

そんな祖母の料理やカニなどの旬の食材を肴に、
祖父はたまにビールや日本酒を飲んでいました。
料理は苦手、というかあまりしたことがないようで、
鍋を焦がして捨てたんだと祖母が怒っていたこともありました。

 

 

 

灘の旧制小学校を卒業し、陸軍では整備の仕事を担当。
そこで終戦を迎え、車の整備の仕事に就いたと聞いています。
戦場に出ずに済んで本当によかった、と言っていました。
同級生で亡くなった人も少なからずいたそうです。

 

 

 

整備工場が店をたたんでしまったので、タクシードライバーに。
自分で整備をしながら、一台の車を大事に大事に乗ったんだと
誇らしげに言っていたのを覚えています。
結局はこれがリタイアまでの仕事になったようです。

 

 

 

リタイアしてからは、字を学んで筆耕の仕事を請け負ったり、
住んでいる団地の自治体の会長になって世話を焼いたり。
長く趣味にしていた写真にも熱が入り、

時には幼い母や叔父を連れ、風光明媚な土地を訪れたそうです。

 

 

 

植物や花を、光と影をうまく表現して撮るのが好きだったようで、
何十冊といったアルバムが残っています。
同好会に所属して展覧会へ出展したり個展を開いたり。
何回か賞をもらったと言っていました。

 

 

 

わたしも結婚してから、少し教えてもらいました。
「やっぱりデジタルはあかんな、写せても表現ができん」
そうぼやいていました。

 

 

 

自治体の会長としての評判は上々だったようで、
祖父の家に滞在していると、何時間かおきに誰かしら訪ねてきて、
相談したりものを聞いたり、時にはどこかへ同行したり。

頼られていた記憶があります。

 

 

 

わたしが就職してから、時折訪れて仕事の話をすると、
そうかそうか、と楽しそうに聞いていました。
時には新米のわたしなんかよりずっと深い洞察で、
社会で起こっていること、懸念されることを教えてくれる。
そんなこともありました。

 

 

 

わたしも異動を経験し、仕事が忙しくなってきたこともあって、
だんだんと足が遠のいていき。
一年に一回会うか会わないか、そのくらいになっていきました。

 

 

 

知らせがないのはよい知らせ。とは言うけれど…

 

 

正月に帰省した時だったか、いつものようにお酒を飲みながら、
母が、ついでの話のようにぽつりと。

 

 

 

「お父さんが末期の肺がんで、余命1年あるかないか」
「どれだけの延命になるかわからんけど、新薬を試したい」
「副作用で一気に危篤になる可能性もある」
「あんたの了承もほしいけど、どう思う?」

 

 

 

何かの悪い冗談かと思いました。確かに90近い高齢なので、
そんなリスクもあることはわかってはいました。
が、いきなり余命いくばくか、とか。
予想も覚悟も、全くありませんでした。

 

 

 

聞けば、息苦しさが続いたので病院で検査してみたら、
末期がんがみつかった、ということ。
それが、母からのカミングアウトの1カ月前。
つまり残された時間は、11カ月あるかないか。

 

 

 

いくらなんでも言うのが遅くないか、と思いました。
が、淡々と話をする母を見て、
これからの備えも含め順序立てて話ができるのに
時間が必要だったのだと悟りました。

 

 

 

高齢だし、体力的に手術や強い抗がん剤での治療は不可能。
承認薬でできるのは進行を少し遅らせることだけ。
新薬なら遅らせる上にもしかしたら小さくできる可能性はある。
ただし、完全になくすことはできない。

 

 

 

がんは脳に転移することもあります。
祖父本人はそれを一番恐れていて、脳への転移を抑えられる
可能性があるなら、リスクを取っても新薬を試したいと。
後日、祖父から直接聞きました。

 

 

 

否やがあろうはずもないです。

文字通り自分の命を賭けて、残りの時間を少しでも良いものにしたい。
そのために自ら決めてリスクに立ち向かう祖父に、

背中を押して一緒に歩む以外、何ができるでしょうか。

 

 

 

それからの1年間は、主に母の希望だったのですが、
祖父といろいろな場所へ行きました。
祖父や母にとって、やり残しをできるだけ少なくするために。
きっと、それまでの時間を埋め合わせる意味もあったのでしょう。

 

 

 

それぞれの場所に、それぞれの思い出がありました。

有馬温泉は、昔、家族で逗留した場所。
祖父は豊臣秀吉ゆかりの湯が好きで、いつか再度、と思っていたこと。
初めて一緒に温泉につかりながら、ぽつりぽつりと、
長い時間をかけて、祖父が携わってきた仕事や考え方を聞きました。

 

 

 

そのことを夜、母に伝えると、唸るように言われました。
初めて聞いた、と。
そして、ありがとう、と言われました。

 

 

 

南紀は、お気に入りの撮影スポット。幼い叔父を連れてきたことも。
いつか母とも、と思っていたそうです。
食が細くなってきていた祖父が、厳めしい顔を少年のようにほころばせ、
クエ料理をたくさん食べていました。

 

 

 

夏には、1990年に「花と緑の博覧会」が開かれた鶴見緑地へ。
公園内や温室には今もたくさんの花が植えられており、
祖父は撮影に足繁く訪れていたそうです。
花の咲く場所、時期はもちろん、公園の変遷にも精通していました。

 

 

 

秋には京都へ。府立植物園や寺社を訪れ、紅葉を楽しみました。
京都は母にとってもなじみ深く、高校時代、
嫌いな先生の授業をサボってよく訪れていた話をして、
祖父を驚かせていました。

わたしと妻も、光と影の撮り方について祖父に手ほどきを受けました。

 

 

 

布引の滝は、祖父にとって、知っているけど初めての場所。
ロープウェイの上から見事な滝が見えました。
麓から頂上に続く数kmの道沿いにたくさんの植物が植わっていました。
別の季節にも来たかったな、と祖父が言っていました。

 

 

 

90の高齢とは思えない体力で、大好きな緑に親しむ旅行を重ねて。
母にとっても初めて見る顔がたくさんあったようです。

 

 

 

公の顔、私の顔

 

新薬の効き目は思ったよりも良好で、深刻な副作用は起こらず。
一時は病巣の縮小まで見られました。

 

 

 

が、現実はそんな甘いものではありませんでした。

 

 

 

ある日、急に入院したと知らせを受けました。
血相を変えて駆けつけると、ケロッとした顔で待ちうけていました。
息苦しくて辛いからと自分で救急車を呼んだそうです。
水を抜く処置をしたら楽になった、と笑っていました。

 

 

 

実はその日、二度目の有馬へ行く予定でした。
さすがにしんどい、土産話を楽しみにしていると言われ、
祖父抜きで行くことになりました。

 

 

 

そんな事が2度ほどあった後、酸素ボンベを曳くように。
元気に見えてもがんは進んでいて、肺胞が減ってしまっており、
酸素が十分に取り込めなくなっていました。

 

 

 

それでもまだ出歩く体力はありましたが、
人目も気になる、ボンベを曳くのも億劫、というのもあって、
外に出にくくなってしまったようです。

 

 

 

わたしも海外出張などが重なり、しばらくしてから会うと、
明らかに痩せてしまっていました。

 

 

 

時間がこんなに急に減ってしまうとは思っていませんでした。
いえ、本当は着々と減っていたんですが、
気付かないふりをしていたんですね。

 

 

 

なぜ無理をしてでも会いに行かなかったのか。
今でも後悔しています。

 

 

 

 

そして数カ月後、最期になる入院へ。
この時も自分で救急車を呼んで、入院準備もしたそうです。
祖母に「ちょっと行ってくる」と言って、散歩に行くみたいに
玄関を出ていったと、落ち着いた頃に祖母に聞きました。

 

 

 

本当に大した祖父でした。

 

 

 

 

 

 

 

通夜、葬式、初盆や三回忌、七回忌と明けてつくづく思ったのが、
周りから頼りにされ、慕われた祖父だったのだということです。

 

 

 

5人兄弟の長兄として礼儀と伝統を重んじ、
3番目以降の兄弟の学費は自分も稼ぎながら面倒をみて。
現在では兄弟全員が高齢で、減じてしまったメンバーもいますが、
今でも「にいちゃんはすごかった」と言います。
にいちゃんは怖かった、とも。

 

 

 

自治体の世話役としても活躍したようです。
会合には毎回出席し、家には人がよく相談に訪れ、時に呼び出されもし。
今、近隣の人が祖母のことを気にかけてくれているのも、
祖父の働きも影響しているように思います。

 

 

 

灯台下暗しとは言いたくないけど

 

 

 

そんな祖父でしたが、特に晩年、悔やまれることがありました。

 

 

 

ひとつめは、自分の子供たちとの関係。

 

 

 

わたしにとっては怖くも優しいおじいちゃんでしたが、
若い時はやはり仕事一筋、家庭を顧みず、頑固な父だったようです。
時代が時代、高度成長期の真っ只中で仕方ない面もありますが、
子供たちとの会話が決定的に足りなかったように思います。

 

 

 

母にとって、晩年の旅行で初めて知った祖父の背景や考え方、
経験がたくさんありました。
お互いいい歳になって、そんな話をするタイミングもあったろうに。
してこなかった。興味を持たなかった。

 

 

それは、祖父が亡くなってから母にとって大きな後悔になっています。
未だに、祖父が晩年に撮影した写真を見る勇気がないと言って、
祖父のために買ったカメラはケースに入ったままです。
最後に祖父が使って、持ち帰った時のまま。

 

 

 

どんなに孝行しても何かしら後悔は残るのでしょうが、
拭いようのない、埋めるチャンスのない大きな後悔が残るのは、
どうしようもなく不幸なことだと思います。

 

 

 

叔父は結婚してから、奥さんの実家との兼ね合いで、
祖父や祖母とほとんど会えていません。
子供も二人いて、孫という「かすがい」があるにもかかわらず。
何が原因なのか、祖父も祖母も母も口にしたがりませんでした。

 

詳しくは知らないので意見もできませんが、
これも不幸なことだと思います。

 

 

 

子供の頃や学生時代は、価値観も違えば共感できないこともあります。
が、子供が社会人になって、生活にも慣れた頃から、
年に1回でも2回でも、酒でも酌み交わしながら話す時間があれば。
この状況も少しは違っていたのかもしれません。

 

 

 

もちろん、それで全て解決、とはなりません。
が、本当に困った時、しんどい時に大きな支えになるのが、
家族なんだと思います。
そこに大きな溝や隙間があると、助けが欲しい時に壁になったり、
のちのち巨大な後悔の源になったりするのではないでしょうか。

 

 

 

もうひとつが、祖母との関係。

 

 

 

わたしが子供の頃は、祖父と祖母は、仲のいい老夫婦でした。
祖父が書き物をしていて、祖母が料理をしていて。
祖母がお茶を淹れると、わたしたちの他に大きい湯呑も用意して、
休憩したらどう、と声をかけるような、そんな、
どこにでもある夫婦でした。

 

 

 

それが、晩年の数年前のいつ頃からか、
祖父に対して、祖母がいやにきつく当たるようになりました。
きつく、というか、もはや絡むという感じ。

 

 

 

起きるのが遅い、食事の後片付けもしない。
自分ばかり外に出かけて、全部人にやらせて。
そんなに大層な人間なのか。偉そうにしやがって。
外で自分のことをバカにしているんだろう。

 

 

 

呼びかけても返事をしない、返事をしたらしたでうるさい。
声が大きい、足音が大きい、呼吸音が大きい。
祖父が何か言うとすぐ、ろくなことを言わない、と遮る。

 

 

 

わたしや母が訪れてもそんな調子でした。

憎しみすら感じる言いようで、うんざりするほどでした。

 

 

 

原因は、祖母と祖父が若かった頃の出来事のようです。
確かなところは二人しか知らないのですが、
どうやら親族内で祖母が孤立することがあり、
それを祖父が助けてあげられなかったようです。

 

 

 

仕事やお寺の対応が忙しかったのでしょうか。
今となってはわかりません。

 

 

 

本当はずっと、祖母の胸の中で燻っていたのでしょう。
それが何かのきっかけか歳経て自制が弱くなったのか、
突如噴出したようです。

 

 

 

祖父が存命の頃、祖父はそれを決して語りませんでした。
祖母は、目の前の祖父のことをなじるばかり。
祖父はそれに、ただただ耐える。

 

 

 

祖父の余命が宣告された後も相変わらずでした。
肺に水がたまって咳が止まらない祖父に、
「うるさくて寝られない」「アピールして、そんなに苦しいか」
などと言ったときは、さすがに聞いていられませんでした。

 

 

 

悲しいことに、それを祖母に注意しても全く聞く耳をもたず、
いかに祖父が自分勝手か、卑劣な人間かを主張するだけ。
わたしや母がいてもそうなのだから、
祖父と祖母ふたりきりの日常では、どんなに苛烈だったでしょうか。

 

 

 

自分の命が尽きようとする中、
そんな理不尽にも思える仕打ちを受けながらも、
一番に祖母のこれからを心配して、心を砕いて、準備していました。

 

それは、どんなに責められても、なじられても、
やっぱり祖母が大事だったからだと思います。

 

 

 

それが祖母に伝わらないことが、本当に切なかったです。

 

 

 

そして今現在、明らかに祖父への接し方が原因で、
母が祖母へのわだかまりを持っています。
祖父の遺志を汲んでやろうと言っても、感情は度し難いもの。
これも本当に悲しいことです。

 

 

大事な人に、大事にしていることを伝えるには

 

 

祖父が亡くなる過程に立ち会って、どうしても想像してしまいました。
自分が死を迎えようとしている時、
自分の人生を振り返って、一体何を思うだろう、と。
きっと、満足できる部分と後悔する部分と、どちらもあるでしょう。

 

 

 

あの困難な時期を乗り越えて成果を出せた、とか。
人間関係に恵まれて、意義のある生き方ができた、とか。
周りから頼られて自分も応えられた、誇れる人生だった、とか。

 

もっといろいろな場所に行きたかった、とか。
尻込みせずに、もっと挑戦したらよかった、とか。
もっと妻や子供や家族を大事にすればよかった、とか。

 

 

 

満足と後悔、どちらか一方だけの人生はありません。
むしろ、後悔があるから満足もある、とも言えるでしょうか。
とはいえ、やはり満足が多い方がいいに決まってますよね。

 

 

 

人生に関わるのは、大きくは2つのものしかないと思います。
自分自身と、周りの人たち。
影響を与える、もしくは与えられる頻度で見ると、

圧倒的に「周りの人たち」の割合が高くなります。

 

 

 

「自分」は一人ですが、「周りの人たち」は複数います。
一言かけるのを影響ひとつとみると、自分が誰かに一言かけるより、
自分が誰かに一言かけられる方が、
一言の数ははるかに多くなりますよね。

 

 

 

使い古された言葉ですが、人は、一人で生きているわけではない、
ということです。
その「周りの人たち」の中で最も身近な存在が、家族です。
配偶者、親、子供、祖父祖母、いとこ や はとこ たちです。

 

 

 

便宜上こう書いただけで、婚姻関係や血縁関係は関係なく、
あなたが「一番大事な人たち」と思える人たちのことです。
例えば親友がここに入ってもいいと思います。
自分自身と家族を軸にして、友人たちがいて、恩師や同僚がいて。
周りの人たちが広がって、人生は成り立つのだと思います。

 

 

 

自分自身を大事にできたと思えること。
一番身近な家族を大事にできたと思えること。
家族から大事にされたと思えること。
家族も「大事にされた」と思ってくれていると、自分が思えること。

 

 

 

これが、自分の人生を振り返った時、満足だと思えることを増やす
第一の方法ではないでしょうか。
そして、さらに周りの人たちも大事にできたと思え、
大事にされたと思ってくれれば、満足は増えていくでしょう。

 

 

 

誰かを「大事にする」というのは、文字にすればたった5字ですが、
大事にできた、大事にしてもらえている、
と感じるのは結構難しいです。

 

 

 

全てにおいて優先するというのも一つの方法ですが、
それでは自分のことが蔑ろになるかもしれないし、
自分が「大事にされた」と感じられないかもしれません。

自分のこと、気持ちも大事にしたいですよね。

 

 

 

というか、自分のことも大事にできない人が、
誰かを大事にするだけの価値観を持っているのか甚だ疑問です。

 

 

 

こうやって大事大事と書いていると、
「だいじ」が「おおごと」に見えてきますね。
まあその通りか。
自分にとってあなたは「おおごと」である、てことですもんね。

 

 

 

大事な人に「大事にしているよ」と伝える方法。
これは、言葉でも態度でも、スキンシップも使って、
繰り返し日常的に発信していくしかないのだと思います。

 

 

 

これには時間もかかるし、発信が伝わる距離にいることも重要です。
すぐに伝わって信頼できる、そんなことは起こり得ません。
一方で、長い時間を経てそれが培われると、揺らがなくなります。
離れていても会えなくても、根っこのところで信じられます。

 

 

 

自分が相手のことを大事に思っている、ということが相手に伝わり、
伝わっていることが自分にもわかる。
その時に「自分は相手を大事にできている」と思えます。
お互いに伝わっていることをわかり合うのが重要です。

 

 

 

ですので、話す時間、触れ合う時間が減ったりなくなることは、
人生の満足度や質を下げることに他なりません。

 

 

 

祖父の人生を否定する気は全くありませんが、
仕事や周りの世話で忙しくて、
祖母や子供と過ごす時間が少なかったのではないかと思います。
実際、母も叔父も、祖父はいつも家にいなかったと言っています。

 

 

 

前にも触れましたが、時代が時代です。
当時の一般的な男性社会人はそれが普通だったと思います。
わたしの妻の父もそうだったようですし、祖父からも義父からも
「男なら仕事に生きてなんぼ」と言われたこともあります。

 

 

 

多少変わってきてはいますが、
現代においてもアジア圏では定着している考え方ですよね。
男性の育児休暇取得や家事への参画率が上がらない大きな原因です。

 

 

 

ですが、仕事に生きて、家族との時間や触れ合いを犠牲にして、
自分の人生に一体何が残るのでしょうか。

 

 

 

意味がないとは言いません。
充実した人生だったと感じられるでしょうし、満足もあるでしょう。
戦友と呼べる上司同僚もできるでしょう。
自分の名前や成果が後世に残ればそれは、文句なく偉業です。

 

 

 

その代わり、大きな後悔をしながら死んでいくのでしょう。

 

 

 

あの困難な時期を乗り越えて成果を出せた。
周りから頼られて自分も応えられた、誇れる人生だった。

 

けど

 

もっと妻や子供や家族を大事にすればよかった。

 

もしかしたら

 

もっと家族を大事にしていれば、辛い晩年を過ごさずにすんだかも。
「偉大な人」ではなく「大事な人」として、
自分の死を心から惜しんでもらえたのかも。
自分がいることで大事な人が幸せを感じる、そんな人であれたのかも。

 

もう、取り返しがつかないけど。

 

 

 

寒々しい気持ちになりますよね。
こんな終わり方はしたくない。
祖父には悪いですが、心からそう思います。

 

 

 

わたしは今、大事な人を大事にできる、自分も大事にしてもらえる、
そんな生き方ができる環境を探しています。
大事な人たちとの時間が十分にとれる、
そんな働き方を探しています。

 

 

 

わたしたちの人生は、一度だけ、わたしたち自身が生きる人生です。
日本や社会や世の中のための人生ではありません。

 

 

 

選択肢として、今いる組織を変えるというのはアリです。
もし達成できれば、望む環境も働き方も一か所で手に入ります。
急ピッチで働き方改革が進む今は、千載一遇のチャンスです。

 

 

 

ですが、事実として、組織はすぐには変わりません。
体力も資金も十分で強力なトップダウンが可能であれば、
数年のうちに変わってもいけるでしょう。
もしあなたがそんな組織にいるならラッキーです。羨ましいです。

 

 

 

わたしの場合、今いる会社が変わるのを待っていたら、
時間切れになるのは明らかです。
たぶん10年はかかります。
組織がなくなっている可能性もあります。

 

 

 

であれば、自分から飛び出すしかないですよね。

 

 

 

 

 

 

アメリカで80歳以上の方を対象にしたアンケートを取ったそうです。
「最も後悔していることは」という質問には、なんと、
70%の人が同じ回答をしたそうです。

 

 

 

それは、チャレンジをしなかったこと。
周りに気を使ったり尻込みせず、もっと挑戦したらよかった、と。

 

 

 

取り返しのつかなくなる前に、満足できる人生にするために。
大事な人たちと幸せに生きるために。
今のままの生活や生き方で大満足、というのでなければ、、
チャレンジしてみましょうよ。


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筆者:鳴海 研

化学メーカーにつとめる30代理系サラリーマン。
一人っ子として育てられたと思ったら実は違ったり、
借金で育てられたり家族が蒸発したり会社の先輩が失踪したり、
色々経験する中で辿り着いた、本当に生きたい人生とは。
あなたはどんな未来を実現したい?そんなことを書いています。

⇒鳴海研ってどんなやつ?

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